玲奈が再び『クラブ ヴィーナス』の扉を開けたのは、20歳の誕生日を迎えた日のことだった。
その日、雅子ママは玲奈のために高級シャンパンを用意していた。
『玲奈ちゃん、お帰りなさい。そして20歳のお誕生日、おめでとう』
雅子がそう言ってグラスを掲げると、店内から大きな拍手が沸き起こった。
『おめでとう!』
お客様もスタッフも、皆が笑顔で玲奈を迎えてくれた。
博多へ戻る前の、まだあどけなさの残る少女の面影は、もうなかった。
すっきりとした顔立ちに、しなやかなスタイル。
以前とは見違えるほど美しくなっていた。
けれど、変わったのは外見だけではない。
博多の母の店で過ごした時間が、玲奈に人と接することの面白さを教えていた。
相手の話に耳を傾け、何を求めているのかを感じ取り、自然に会話をつなげていく。
それは、銀座で生きていくための大切な力になっていた。
『玲奈ちゃん、ずいぶん綺麗になったわね。博多で何かあった?』
雅子が笑いながら尋ねる。
『何もないですよ。ただ、少し大人になっただけです』
玲奈はそう答え、グラスを手にした。
しかし、銀座は美しいだけで通用するほど甘い世界ではなかった。
ヴィーナスには雅子ママを中心に、二人のチーママ、売上を持つ女性たち、そしてヘルプと呼ばれる女性たちが大勢働いていた。
店に入ったばかりの玲奈は、まずヘルプからのスタートだった。
どれほど容姿が整っていても、自分のお客様を持たなければ売上にはならない。お客様の隣に座り、会話を盛り上げ、場を和ませる。
それがヘルプの仕事だった。
自分のお客様を持つようになるには、そこから一歩抜け出さなければならない。
銀座の店では、それぞれにやり方がある。ママの常連客が連れてくる友人や仕事仲間、いわゆる『枝葉』と呼ばれる人たちを、新人の女性に紹介することもあった。
そうした人たちとの関係を築き、自分のお客様になってもらうのも一つの方法だった。
また、ヘルプとして多くのお客様と接するなかで連絡先を交換し、後に別の店へ移る際、その人たちを自分のお客様として迎える女性もいた。
一年ほどで店を移る女性がいるのも、そうした事情があったからだ。自分のお客様を増やし、より良い条件で働く。
それもまた、この世界で生き残るための一つの選択だった。
ヘルプと売上を持つ女性とでは、収入にも大きな差がある。
玲奈は、その仕組みをすぐに理解した。
そして、持ち前の勘の鋭さを発揮し始めた。
雅子の常連客が連れてくる友人たち。
玲奈は、ただ隣に座って愛想よく笑うだけではなかった。
相手が何に興味を持ち、どんな話をしたがっているのかを素早く感じ取る。
話した内容を覚え、次に会ったときには何気なくその続きを尋ねる。
自分の話ばかりする人には気持ちよく話してもらい、普段は口数の少ない人には無理に話をさせない。
相手の懐に入る、その距離感が絶妙だった。
博多で身につけた人との接し方に、銀座で必要な駆け引きが加わっていく。
やがて、お客様のほうから玲奈を求めるようになった。
『今日は玲奈ちゃん、いる?』
その言葉が増えるたびに、玲奈の売上も伸びていった。
雅子はそんな玲奈の成長を、静かに見守っていた。
それから3年の月日が流れた。
20歳で戻ってきた玲奈は、23歳になっていた。
今では店でも一目置かれる存在となり、売上も申し分ない。
お客様からの信頼も厚く、後輩の女性たちから相談を受けることも増えていた。
そして、ついに念願のチーママへと昇格した。
自分の力でここまで来たという自信が、玲奈の表情にも立ち居振る舞いにも表れていた。
雅子から任される仕事も増え、店を切り盛りする立場としての責任も背負うようになった。
華やかな銀座の世界で、玲奈は確実に自分の居場所を築いていた。
そんなある夜のことだった。
お客様との同伴を終え、店で過ごしたあと、玲奈はそのお客様に誘われて、初めて訪れるバーへ向かった。
店の名前は『Bar Mute』。
扉を開けると、そこには広々としたカウンターがあり、店内は落ち着いた照明に包まれていた。
賑やかな銀座のクラブとは違い、静かな時間が流れている。
カウンターの向こうに立つバーテンダーに、玲奈は目を留めた。
湯浅というその男は、日に焼けた肌に、引き締まった筋肉質の身体をしていた。
バーのマスターというより、サーファーのような雰囲気がある。
バーテンダーにも、いろいろなタイプがいる。
会話を楽しませ、客を笑わせることに長けた人もいれば、必要以上に言葉を交わさず、酒そのものの魅力で客をもてなす人もいる。
湯浅は、後者だった。
余計なことは話さない。けれど、その所作には無駄がなく、酒をつくる手つきにも独特の落ち着きがあった。
『やあ、マスター。久しぶりだね』
隣にいたお客様が声をかける。
『あ、いらっしゃいませ。お久しぶりです』
湯浅は穏やかに答えた。
『今日はすごい美人を連れてきたぞ!』
『こんばんは』
玲奈は微笑んで挨拶をした。
その瞬間だった。
胸の奥で、何かが弾けたような気がした。
なぜだろう。
初めて会った男なのに、目が離せない。
玲奈は自分でも戸惑うほど、心臓が速く打つのを感じていた。隣に座るお客様に、この鼓動が聞こえてしまうのではないかと思うほどだった。
ところが湯浅は、お客様の『すごい美人』という言葉にも、特別な反応を見せなかった。
『いつものソーダ割りでよろしいですか?』
『ああ、頼むよ』
それだけだった。
玲奈を意識している様子もなく、いつもと変わらない落ち着いた態度で仕事を続けている。
その自然な距離感が、かえって玲奈には新鮮だった。
『お客様は何になさいますか?』
湯浅が玲奈に尋ねた。
『おすすめをお願いしてもいいですか?』
『そうですね……ブラッドオレンジのカクテルはいかがでしょう。ウォッカをベースにして、隠し味にテキーラをほんの少し加えます。味に奥行きが出るんですよ』
そう言いながら、湯浅は手際よくグラスを用意し始めた。
その説明を聞いているだけで、玲奈は不思議と心地よかった。
すると、少し酔いの回ったお客様が口を挟んだ。
『なんだよ、マスター。玲奈ちゃんにはずいぶん親切に説明するじゃないか。俺にはそんなこと、あまり聞かせてくれたことがないぞ』
湯浅は手を止めることなく、静かに笑った。
『玲奈さんですね。覚えておきます』
そう言って、ほんの一瞬、玲奈の目をまっすぐに見た。
そして、かすかに微笑んだ。
たったそれだけのことだった。
けれど、その短い視線と笑顔が、玲奈の胸に深く残った。
それまでの3年間、玲奈は銀座で自分の名前を売ることに夢中だった。
どうすればお客様に気に入られるのか、どうすれば売上を伸ばせるのか。
仕事のことばかり考え、誰かに心を奪われるようなことはなかった。
自分の足で立ち、自分の力で生きていく。
それが玲奈の目標だった。
なのに、今夜は違った。
店を出たあとも、湯浅の声や表情が頭から離れない。
『玲奈さんですね。覚えておきます』
その言葉を、何度も思い返していた。
銀座でどれほど多くの男性と出会っても、こんな気持ちになったことはなかった。
仕事では自信に満ちていた玲奈の心に、久しぶりに小さな波が立った。
それは、彼女自身もまだ知らない、新しい物語の始まりだった。