なぜ、玲奈は再び博多へ戻ることになったのか。
それは、母親である美幸の機転によるものだった。
玲奈は、せっかくつかんだ女優へのチャンスを母親に壊されたと思い込み、美幸を恨んでいた。
しかし、美幸には、娘の夢を邪魔するつもりなどなかった。
ただ、娘が目の前の希望にすがるあまり、取り返しのつかないことになってしまうのが怖かったのだ。
美幸が石川社長との面談を終えたその夜、頼ったのは、博多の店に長年通ってくれている常連客の田中だった。
田中は、かつて検察庁に勤めていた人物で、定年退職後は故郷の博多に戻り、悠々自適な生活を送っていた。
現役時代の仕事柄、人を見る目もあり、物事を慎重に判断する男だった。
美幸はホテルに戻ると、すぐに田中へ電話をかけた。
『田中さん、こんばんは。美幸です』
『おお、ママか。電話なんて珍しいじゃないか。どうしたんね?』
いつもと変わらない、気さくな声が返ってきた。
『今、お電話しても大丈夫ですか?』
『もちろん、どうしたんね、そんな改まった口調で』
美幸は、ほっと息をついてから話し始めた。
『実はね、玲奈のことで相談があるんです』
『玲奈ちゃん? 東京に行った娘さんのことかい?』
『そうなんです。女優になりたいと言って東京へ行ったでしょう。それで、ようやく芸能プロダクションから専属契約をしてもらえることになったって、本人はすっかり喜んでいるんです』
『ほう、それはよかったじゃないか』
『ところがね、契約の話を聞いていたら、レッスン代だとか宣材写真の撮影代だとか、かなり費用がかかるので、その一部を負担してほしいと言われたんです』
田中の声が、少し低くなった。
『それで、いくら必要だと言われたんだ?』
『それが、具体的な金額を聞く前に、一晩考えさせてくださいと言って出てきてしまったんです』
電話の向こうで、田中が小さく息を吐いた。
『そうか。それは、いい判断だったと思うよ』
その一言に、美幸は少し救われた気がした。
『やっぱり、そう思いますか?』
『もちろん、芸能界に入るためにレッスンが必要なこともあるだろうし、費用がかかること自体がおかしいわけじゃない。ただ、契約の内容や費用の内訳がはっきりしないまま、急いで決めるのはよくないな』
『そうですよね。私も、そこが気になって……』
『そのプロダクションの名前は?』
『港区新橋にある、NKプロダクションという会社です』
『分かった。昔の知り合いに聞いてみよう。何か分かったら連絡するから、それまでは契約も支払いもしないほうがいい』
『ありがとうございます、田中さん。本当に助かります』
電話を切った美幸は、携帯電話を握ったまま、しばらく考え込んでいた。
娘の夢を応援したい気持ちは、今も変わらない。
けれど、母親だからこそ、夢という言葉だけで判断するわけにはいかなかった。
そして、それほど時間を置かずに、田中から折り返しの連絡が入った。
調べてもらった結果は、美幸が心配していたとおり、契約を急ぐべきではないというものだった。
詳しい事情をすべて把握できたわけではない。
それでも、安心して娘を任せられる相手だと確認できる材料はなかった。
田中も、今は関わらず、慎重に考えたほうがいいと助言した。
美幸は、玲奈にその話を伝えた。
『玲奈、よく聞いてね。田中さんにも相談して調べてもらったの。あの事務所はトラブルが多く今は関わらないほうがいいそうなの』
『どうしてよ! 石川社長は親切だったし、私を女優にしたいって言ってくれたのよ』
『親切にしてくれたことと、安心して契約できることは別でしょう? 』
『でも……せっかく、やっとチャンスが来たのに』
玲奈の目には、悔し涙が浮かんでいた。
美幸は、娘の肩を抱いた。
『玲奈、ママだって、あなたの夢を諦めさせたいわけじゃないのよ。ただ、夢を叶えたいという気持ちを利用されて、傷つくことだけは避けたいの』
その言葉は、玲奈の耳には届いていた。
けれど、心には届かなかった。
玲奈にとっては、ようやく目の前まで来た夢を、母親に取り上げられたようにしか思えなかったのだ。
東京は、華やかで、可能性に満ちた街だ。
そこには、自分の人生を変えてくれる何かがある。
そう信じていた。
けれど、一歩間違えれば、希望につけ込まれ、思いもよらないところへ転がり落ちてしまう怖さもある。
玲奈は、そのことを身をもって知ることになった。
夢を失った悲しみと、危うい道へ進まずに済んだ安堵。
相反する二つの気持ちを抱えながら、19歳の少女は、逃げるように博多へ戻るしかなかった。
東京での暮らしは、玲奈の心に大きな傷を残した。
女優になるという夢は、まだ消えたわけではない。
けれど、今はもう、何かに挑戦する気力さえ湧いてこなかった。
帰郷してからの玲奈は、部屋にこもりがちになった。
美幸が声をかけても、返事は短い。
外へ出かけることも少なくなり、以前のように夢を語ることもなくなった。
そんな日々が1か月ほど続いたある日、美幸は娘の部屋を訪ねた。
『玲奈ちゃん、少しは気分転換しない?』
『別に……』
玲奈は、ベッドに腰かけたまま、気のない返事をした。
美幸は、そんな娘の様子を見ながら、しばらく言葉を探していた。
無理に元気づけても、今の玲奈には届かないだろう。
けれど、このまま部屋に閉じこもっていては、ますます気持ちが沈んでしまう。
そこで、美幸は思い切って提案した。
『ねえ、玲奈。ママのお店で働いてみない?』
玲奈は、少し驚いた顔で母を見た。
『お店で?』
『そう。ずっと部屋にいるより、少し外に出て、人と話してみるのもいいんじゃないかと思ってね。もちろん、無理にとは言わないけど』
美幸は、あくまでも控えめに言った。
娘が断るかもしれない。
それでも、何かのきっかけになればと思ったのだ。
玲奈は、しばらく考えていたが、やがて小さくうなずいた。
『うん……。1人で部屋にいるのも、なんだか飽きちゃったし。お店に行ってみようかな』
その返事を聞いた美幸の顔が、ぱっと明るくなった。
『本当? 嬉しいわ。玲奈と一緒に働けるなんて、ママ、楽しみだわ』
その日、玲奈は博多・中洲にある美幸のスナックで、新しい一歩を踏み出した。
店内は、落ち着いた色調でまとめられた、シックな雰囲気だった。
カウンターの向こうには酒瓶が並び、奥にはゆったりと座れるボックス席がある。
派手さはないが、美幸の明るい人柄が店全体に行き渡り、初めて訪れた客でも自然とくつろげるような空間だった。
『いらっしゃいませ』
玲奈は、少し緊張しながら頭を下げた。
銀座のクラブで働いた経験はある。
けれど、あの頃の玲奈は、ただ言われたとおりにお酒を作り、何を話せばいいのか分からず、時間が過ぎるのを待っていることが多かった。
自分から話しかけるのも苦手だった。
相手の目を見て話すだけで緊張してしまい、会話が途切れると、どうしていいのか分からなくなる。
ところが、博多では少し違っていた。
美幸のお客様は、玲奈にとって初めて会う人ばかりだったが、母親が長年築いてきた店の空気が、彼女の緊張を少しずつ解きほぐしてくれた。
『玲奈ちゃん、東京に行っとったんやろ? どうやったね、東京は』
カウンターに座った男性客が、興味深そうに尋ねた。
『はい。でも、思っていたより大変でした』
玲奈は、少し苦笑いを浮かべた。
『そりゃそうやろうね。東京は人も多いし、何でも競争やけんね』
『本当にそうですね』
以前なら、そこで会話が途切れていたかもしれない。
けれど、その日は違った。
『お仕事も、やっぱり大変なんですか?』
玲奈が尋ねると、男性客は嬉しそうに話し始めた。
仕事のこと、家族のこと、最近あった出来事。
玲奈は、相手の話を遮らず、時折うなずきながら耳を傾けた。
分からないことは、素直に聞いた。
面白い話には笑い、困った話には一緒になって考えた。
気の利いた言葉を返そうとするのではなく、目の前の人の話を、そのまま受け止めてみたのだ。
すると、不思議なことが起こった。
お客様のほうから、次々と話しかけてくれるようになった。
『玲奈ちゃん、話しやすいねえ』
『ほんと、初めて会った気がせんね』
そんな言葉をかけられるたび、玲奈の顔には自然な笑みが浮かんだ。
銀座では、どうすればお客様に気に入られるのか、そればかり考えていた。
面白い話をしなければ。
気の利いたことを言わなければ。
綺麗に見られなければ。
そう思えば思うほど、言葉が出てこなくなっていた。
けれど、ここでは違った。
自分をよく見せようとしなくてもいい。
無理に話を盛り上げようとしなくてもいい。
相手の話を聞き、心から笑い、分からないことを尋ねる。
ただそれだけで、会話は自然に続いていった。
玲奈は、少しずつ気づき始めていた。
人と話すことは、こんなにも楽しいものだったのか。
自分の言葉で相手が笑ってくれる。
何気ない一言を喜んでもらえる。
帰り際に『また来るけんね』と言ってもらえる。
その一つひとつが、玲奈の心を温めていった。
ある夜、常連客の一人が帰り際に言った。
『玲奈ちゃん、今日は楽しかったよ。また話そうね』
『ありがとうございます。またいらしてくださいね』
玲奈は、心からそう答えていた。
客が帰ったあと、ふと気づいた。
自分は今、女優になるためでも、誰かに認めてもらうためでもなく、目の前のお客様との時間を楽しんでいたのだ。
それは、東京では感じることのできなかった喜びだった。
美幸もまた、娘の変化に気づいていた。
最初は遠慮がちだった玲奈が、いつの間にかお客様の名前を覚え、前に聞いた話を思い出して声をかけるようになっていた。
『この前おっしゃっていたお仕事、どうなりました?』
『ああ、覚えとってくれたとね!』
そんなやり取りに、客の顔がほころぶ。
玲奈は、特別な技術を身につけたわけではなかった。
ただ、相手の話を覚えていた。
相手の気持ちを想像していた。
そして、もう一度会えたことを素直に喜んでいた。
その自然な振る舞いが、お客様の心をつかんでいったのだ。
美幸は、カウンターの向こうから娘の姿を見つめながら、嬉しさを噛みしめていた。
この子には、こんな一面があったのか。
女優になりたいという夢ばかりを追いかけていた玲奈が、今、別の場所で自分の居場所を見つけ始めている。
それは、母親にとっても思いがけない発見だった。
やがて、玲奈はお客様から名前を覚えてもらい、指名して来店してくれる人も増えていった。
店に顔を出すたびに玲奈の姿を探す人。
仕事の愚痴をこぼしに来る人。
嬉しいことがあると、真っ先に報告してくれる人。
玲奈は、そんな一人ひとりとの関わりを通して、接客という仕事の奥深さを知っていった。
お酒を作ることが仕事なのではない。
会話を通じて、その人の心に寄り添うこと。
日々の疲れを忘れ、少しでも楽しい時間を過ごしてもらうこと。
そして、またこの店に来たいと思ってもらうこと。
それが、接客という仕事なのだと、玲奈は少しずつ理解していった。
いつしか、店に立つことが楽しみになっていた。
出勤前に鏡を見るときも、以前のような暗い表情はなくなっていた。
お客様に会えることが嬉しい。
今日はどんな話が聞けるだろう。
そんな気持ちで店のドアを開けるようになった。
不思議なことに、心が落ち着いてくると、身体にも変化が表れ始めた。
東京では、10キロ痩せなければ女優にはなれないと言われ、食べることさえ怖くなっていた。
数字に追い立てられ、自分の身体を責め続けていたあの頃。
けれど博多に戻ってからは、極端な食事制限をすることもなくなった。
仕事をして、人と話し、笑い、きちんと食事を取って眠る。
そんな当たり前の日々を送るうちに、玲奈の身体は少しずつ変わっていった。
気がつけば、以前よりもすっきりとした体型になっていた。
顔立ちも、いっそう引き立つようになった。
けれど、何より変わったのは、その表情だった。
鏡に映る玲奈の顔には、以前のような焦りや不安はなかった。
自分を否定することも、誰かと比べて落ち込むことも、少なくなっていた。
心から笑えるようになったことで、その美しさは、以前とは違う輝きを帯び始めていた。
博多での日々は、玲奈から夢を奪ったのではなかった。
むしろ、夢を追いかけることに必死で見失っていた、自分自身を取り戻す時間になっていたのかもしれない。
そして、そんな玲奈の変化を、まだ知らない人がいた。
銀座のクラブ・ヴィーナスを経営する、高梨雅子だった。
ある日、雅子は、お客様のお祝いごとに出席するため、博多を訪れることになった。
仕事を終えたあと、ふと、美幸の店のことを思い出した。
そういえば、玲奈はどうしているだろう。
雅子は美幸の店を訪ねてみることにした。
そのとき、雅子はまだ知らなかった。
自分の目の前に現れる玲奈が、東京を去ったときとは別人のように変わっていることを。
そして、その再会が、玲奈の人生を再び動かすことになるのを。