【連載小説】第154話 夢につけ込む甘い言葉

【連載小説】第154話 夢につけ込む甘い言葉

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『俺、ここで働いているんだ』

佐々木は、そう言って一枚の名刺を差し出した。

そこには、NKプロダクション開発部・佐々木翔と記されていた。

開発部――。

つまり、芸能界で活躍する新人を発掘する、スカウトマンだった。

『わあ、佐々木さんってスカウトマンだったんですね!』

玲奈の目が、ぱっと輝いた。

『これでも原宿では、ちょっとは名の知れた存在なんだよ』

佐々木は、得意げに笑った。

その少し自慢げな表情が、なぜか玲奈には可愛らしく思えた。

『実は私、女優になりたくて東京に来たんです。佐々木さんと偶然出会えたのって、これも運命なのかな?』

玲奈がそう言うと、佐々木は思い出したように尋ねた。

『あっ、そういえば、まだ名前を聞いていなかったね』

『私は玲奈。彼女は菜々美ちゃんです』

『玲奈ちゃんに、菜々美ちゃんか』

佐々木は2人の顔を見比べたあと、玲奈の目をじっと見つめた。

『玲奈ちゃんと会えたのは、偶然じゃないよ。きっと、会う運命だったんだ』

その笑顔には、人を惹きつける不思議な力があった。

これまで、いったい何人の女性が、その言葉と笑顔に心を動かされてきたのだろう。

玲奈は、すっかり見とれていた。

自分のことを特別な存在だと言ってくれる人がいる。

それだけで、今までの失敗や挫折が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。

『ねえ、玲奈ちゃん。もうそろそろ帰らないと……』

隣にいた菜々美が、時計を気にしながら声をかけた。

『あっ、そうね』

玲奈は、ようやく我に返った。

『佐々木さん、私たち、これから用事があるので帰りますね』

『そうか、残念だな。それじゃあ、せめて連絡先だけでも交換してくれる?』

『もちろん!』

玲奈は、何の迷いもなく携帯電話を取り出した。

その様子を横で見ていた菜々美は、どこか引っかかるものを感じていた。

佐々木は、初対面とは思えないほど自然に距離を縮めてくる。

褒め言葉も、笑顔も、あまりに手慣れている。

けれど、そんな違和感を、玲奈にどう伝えればいいのか分からなかった。

その日は、お客様と相撲を観に行く約束があった。

2人は佐々木と別れ、両国国技館へと急いだ。

けれど、相撲を観ている間も、玲奈の心はどこか上の空だった。

土俵の上で繰り広げられる熱戦を眺めながらも、頭に浮かぶのは佐々木の顔ばかり。

もしかしたら、あの人が私を女優への道へ導いてくれるのかもしれない。

芸能プロダクションに断られ3か月でマイナス10キロのダイエットも失敗して

自分には、もう何も残されていないような気がしていた。

そんなときに現れた佐々木は、まるで暗闇の中に差し込んだ一筋の光のようだった。

その夜、アパートに戻った玲奈の携帯電話が鳴った。

佐々木からのメールだった。

ー今日は会えて嬉しかったよ。あの後、社長に玲奈ちゃんのことを話したら一度会ってみたいと言ってるんだ。僕が、すごく綺麗な子だからぜひ会ってほしいって勧めたんだよ。明日の15時、事務所に来られるかな?ー

玲奈は、思わず飛び上がりそうになった。

自分のことを、会社の社長にまで話してくれた。

しかも、会いたいと言ってくれている。

夢への扉が、もう一度開き始めたような気がした。

玲奈は、すぐに返信した。

ー佐々木さん、ご連絡ありがとうございます。明日の15時ですね。必ず伺います。今日は嬉しくて眠れそうにありません!ー

送信ボタンを押すと、玲奈は携帯電話を胸に抱きしめた。

やっぱり、佐々木さんとの出会いは運命だった!

そう思わずにはいられなかった。

しかし、翌日。

玲奈は1人でNKプロダクションへ向かうことになった。

菜々美が、どうしても佐々木を信用できないと言い張ったからだ。

『玲奈、ちょっと考えたほうがいいと思う。あの人、初めて会ったばかりなのに話がうますぎない?』

『そんなことないわよ。私のことを社長に推薦してくれたんだから』

『でも、会ったばかりでしょう? そんなに簡単に信用して大丈夫なの?』

『菜々美は、私だけがスカウトされたから面白くないんじゃないの?』

思わず口にしてしまった言葉に、菜々美の表情が曇った。

『……そういうことじゃないよ』

それでも玲奈は、自分の考えを曲げなかった。

菜々美は心配しているだけなのかもしれない。

けれど、玲奈には、ようやく訪れたチャンスを邪魔されているようにしか思えなかった。

結局、2人は気まずいまま別れた。

そして玲奈は、一人で新橋へと向かった。

NKプロダクションの事務所は、雑居ビルの一室にあった。

南青山の芸能プロダクションとは違い、建物の中は少し薄暗く、廊下にも華やかさはなかった。

玲奈は、入口の前で足を止めた。

本当に、ここでいいのだろうか。

ほんの一瞬、不安が胸をよぎった。

けれど、すぐに佐々木の笑顔が浮かんだ。

せっかくつかんだチャンスなのだ。

ここで怖気づいてどうする。

玲奈は小さく息を吸い、ドアを開けた。

事務所の中には、佐々木と、いかにも強面といった風貌の男性が待っていた。

『待っていましたよ。社長の石川です。まあまあ、こちらに座ってください』

石川は、見た目とは裏腹に、物腰の柔らかな男だった。

玲奈に椅子を勧め、お茶まで出してくれた。

『初めまして。玲奈です。よろしくお願いします』

そう挨拶したものの、玲奈には人見知りの悪い癖が出てしまった。

緊張すればするほど、何を話せばいいのか分からなくなる。

頭の中が真っ白になり、言葉がうまく出てこない。

そんな玲奈を見て、石川は穏やかに笑った。

『佐々木から聞いていましたが、本当に綺麗な方ですね。なかなか、こういう顔立ちの子はいませんよ』

『そうでしょう。原宿で初めて見かけたとき、僕も、どこかのプロダクションに所属している新人女優かと思ったくらいですから』

佐々木も、すかさず言葉を添えた。

玲奈は、恥ずかしそうにうつむいた。

『……ありがとうございます』

消え入りそうな声だった。

石川は、お茶を勧めながら、芸能界の話や何気ない世間話を交え、玲奈の緊張をほぐそうとしてくれた。

最初はぎこちなかった玲奈も、少しずつ話せるようになっていった。

そして、石川は本題に入った。

『玲奈さん、芸能界というのは、皆さんが思っている以上に厳しい世界なんです。今の状態でオーディションを受けても、最初は端役からのスタートになるかもしれません』

『そうなんですか……』

玲奈の表情に、不安が浮かんだ。

『もちろん、最初から大きな役をもらえる人もいます。でも、演技の経験がなければ、せっかくチャンスをもらっても、その機会を生かせないことがあるんですよ』

石川の説明は、もっともらしく聞こえた。

玲奈自身、演技を学んだことは一度もない。

女優になりたいという気持ちは強くても、何から始めればいいのかさえ分からなかった。

『うちとしても、玲奈さんにはきちんと演技を学んでもらって、少しでもいい役でデビューしてほしいと思っています』

『分かります。私、レッスンを受けたいです。今のままだと、何も分からないままで不安ですから』

玲奈は、素直な気持ちを口にした。

石川は満足そうにうなずいた。

『そうですか。分かってもらえてよかった。ところで、玲奈さんのご両親は何をされているんですか?』

『母親しかいません。博多でスナックを経営しています』

『そうですか。ママさんなんですね。玲奈さんのお母さんなら、きっと綺麗な方なんでしょうね』

『いえ、普通の母ですよ。でも、私の夢を応援してくれています』

その言葉を聞いて、石川は少し考えてから切り出した。

『玲奈さん、ぜひ、うちと専属契約を結んでいただきたいと思っています。ただ、お母さんにも一度、東京に来てもらえませんか? 契約について、きちんと説明したいので』

『はい、分かりました。母に連絡してみます』

玲奈の胸は、喜びでいっぱいになった。

専属契約。

芸能プロダクションに所属できる。

これで、ようやく女優への道が開けるのだ。

東京まで来た甲斐があった。

夢が、もう手の届くところまで来ている。

玲奈は、すっかり有頂天になっていた。

それから数日後。

玲奈から専属契約の話を聞いた美幸は、急いで東京へやって来た。

娘が芸能プロダクションと契約できる。

それは、美幸にとっても嬉しい知らせだった。

しかし、娘の夢が叶いそうだからこそ、確かめておかなければならないことがあった。

芸能界のことは、何も分からない。

だからこそ、契約の内容について、曖昧なまま話を進めるわけにはいかなかった。

事務所に到着すると、石川が笑顔で迎えてくれた。

『初めまして。社長の石川です。遠いところからお越しいただき、ありがとうございます』

『初めまして。玲奈の母の美幸です。このたびは娘がお世話になりまして、ありがとうございます』

美幸は、博多で長年スナックのママとして働いてきた女性だった。

初対面の相手にも臆することなく、落ち着いて挨拶を交わした。

石川は名刺を差し出し、丁寧に頭を下げた。

『今日は、契約について詳しくお話しさせていただきますので、どうぞ何でも聞いてください』

その言葉に、美幸は少し安心した。

しかし、安心することと、すべてを信用することは違う。

美幸は、最初から聞こうと決めていたことを口にした。

『さっそくですが、専属契約をしていただけるというお話でしたね。具体的には、どのような契約になるのでしょうか?』

石川は、慣れた様子で説明を始めた。

『専属契約というのは、簡単に言えば、うちの事務所が玲奈さんのスケジュールを管理したり、宣伝をしたり、仕事の交渉をしたりする契約です。育成についても、うちでサポートしていきます。専属になっていただければ、こちらも責任を持って、玲奈さんを売り出していきたいと考えています』

『なるほど……』

美幸は、うなずきながら話を聞いた。

『東京は、私たちにとって右も左も分からない場所です。玲奈が本当にここでやっていけるのか、不安もありました。でも、今日お話を伺って、少しほっとしました』

美幸の言葉に、石川は笑顔を見せた。

『そう言っていただけると、こちらも嬉しいです。玲奈さんには、十分可能性があると思っていますから』

そして、石川は少し声の調子を変えた。

『ただ、お母さん。ここからが本題なのですが……』

美幸は、姿勢を正した。

『先ほど、育成の話をしましたよね。玲奈さんは、まだこれから経験を積んでいく段階です。演技の勉強をしていませんから、いきなりオーディションを受けても、思うような結果が出ないかもしれません』

『そうですよね』

『ですから、まずは演技のレッスンを受けてもらいたいんです。それから、宣材写真の撮影なども必要になります。新人を育てるには、どうしても最初に費用がかかります』

石川は、言葉を選ぶように続けた。

『その費用の一部を、お母さんにも負担していただけないかと考えています。ほかの新人の方にも、同じようにお願いしているんですよ』

『えっ……。レッスン料ですか?』

美幸は、思わず聞き返した。

『はい。玲奈さんの将来への投資、と考えていただければと思います』

玲奈は、母の顔を見た。

自分にとっては、ようやくつかんだチャンスだった。

レッスンを受けられるなら、費用がかかるのも仕方がないのかもしれない。

そんな気持ちが、胸の中で膨らんでいた。

しかし、美幸の表情は、少しずつ曇っていった。

専属契約の話を聞きに来たはずなのに、いつの間にか、費用の話になっている。

その金額はいくらなのか。

何に、どれだけかかるのか。

契約を結んだら、どんな仕事を紹介してもらえるのか。

そして、もし途中で辞めたくなったら、どうなるのか。

聞きたいことは、いくつもあった。

けれど、初めて訪れた事務所で、どこまで踏み込んで聞いていいのかも分からなかった。

美幸は、しばらく考えたあと、静かに口を開いた。

『石川さん、申し訳ありませんが、少し時間をいただけますか? 今すぐには判断できそうにありません。頭の中を整理して、もう一度考えたいんです』

石川は、少し困ったような表情を浮かべた。

『そうですか……。実は、レッスンの枠が残り少なくなっているんです。今なら、まだ間に合うと思うのですが』

その言葉に、美幸の心が揺れた。

今決めなければ、娘のチャンスを逃してしまうのだろうか。

そんな思いが頭をよぎった。

それでも、美幸は首を横に振った。

『私は明日まで東京にいる予定です。明日、もう一度お伺いしてもよろしいでしょうか』

石川は、少し間を置いてから答えた。

『分かりました。ただ、今日のうちに枠が埋まってしまったら、そのときは申し訳ありません』

『もちろんです。明日、もう一度お話を聞かせてください。今日はありがとうございました』

美幸は丁寧に頭を下げた。

そして、玲奈の手を取り、事務所を出た。

まるで、そこから逃げるような足取りだった。

外に出た途端、玲奈は母の手を振りほどいた。

『ちょっと、ママ! どうしたのよ。急に帰るなんて!』

声が大きくなっていた。

『玲奈、あの事務所、私は少し気になるのよ』

『何が気になるの? 社長だって親切だったじゃない!』

『親切かどうかだけの問題じゃないの。いきなりお金を出してほしいと言われたでしょう? いくらかかるのかも、契約の詳しい内容も、まだ分からないじゃない』

『そんなの、芸能界に入るためなら当たり前なんじゃないの?』

玲奈は、必死だった。

『やっと見つかったチャンスなのよ! 今までどれだけ苦労してきたと思ってるの? ママだって、私の夢を応援してくれるって言ったじゃない!』

その言葉に、美幸の胸が痛んだ。

娘の夢を応援したい。

その気持ちは、今も変わらない。

だからこそ、簡単にお金を払い、契約を結ぶわけにはいかなかった。

『玲奈、私はあなたの夢を邪魔したいんじゃないのよ。あなたが本当に女優になれる道なら、私だって応援したい。でも、分からないことがあるまま、大切なお金を出すことはできないの』

『じゃあ、私の夢はどうなるのよ!』

玲奈の目から、涙があふれた。

『やっと、女優になれるかもしれないと思ったのに……。ママは何も分かってない!』

玲奈は、その場にしゃがみ込んで泣き出した。

美幸は、そんな娘を見下ろしながら、胸が締めつけられる思いだった。

自分が東京へ行くことを許さなければ、こんな苦しい思いをさせずに済んだのだろうか。

けれど、あのとき、娘の夢を応援しようと決めたのは自分だった。

だからこそ、ここで引き返すことも、母親としての責任なのかもしれない。

美幸は、玲奈の肩にそっと手を置いた。

『もう泣かないの。知り合いにも頼んで、ちゃんと調べてみるから。それから考えたって、遅くはないでしょう?』

玲奈は、返事をしなかった。

ただ、うつむいたまま、涙をぬぐっていた。

その後、美幸は知り合いにも相談しながら、契約について考え直すことにした。

けれど、傷ついた玲奈の心は、すぐには立ち直らなかった。

自分の夢を信じてもらえなかった。

せっかく目の前に現れたチャンスを、母親に奪われた。

玲奈の心には、そんな思いばかりが残っていた。

やがて数週間が過ぎた。

東京での暮らしに希望を見いだせなくなった玲奈は、博多へ戻ることになった。

大女優になるという夢を胸に、期待を抱いて上京した少女。

その手には、何も残っていなかった。

東京へ来れば、人生が変わると思っていた。

けれど、現実は、玲奈が思い描いていたものとはあまりにも違っていた。

そして玲奈は、まだ知らなかった。

夢を追いかけることの難しさと、夢を諦めることの苦しさ。

その両方を、これから長い時間をかけて知っていくことになるのを。
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