東京へ行けば、夢は叶う。
そう信じて、故郷を離れた一人の女性がいた。
けれど、東京は彼女が思い描いていたほど優しい街ではなかった。
夢に近づくどころか、自分が何者なのかさえ、わからなくなっていく。
やがて彼女は、かつての輝きを失い、故郷へ帰ることになった。
そのときの彼女が、数年後、まったく違う世界で脚光を浴びることになるなど、誰が想像できただろう。
その女性の名は、玲奈。
今年、19歳になる。
父親は玲奈が幼い頃に失踪し、それきり戻ってくることはなかった。
顔さえ知らない父親の記憶は、玲奈の中にはない。
母親の美幸は、博多で小さなスナックを経営しながら、女手一つで娘を育ててきた。
中学生になり、多感な時期を迎えると、玲奈は地元の友人たちと母親の化粧品をこっそり持ち出し、慣れない化粧をしては夜の街へ繰り出した。
そして、何度も補導された。
美幸に叱られても、玲奈は懲りなかった。
母親譲りの、はっきりとした目鼻立ち。
人目を引く華やかな顔立ちは、幼い頃から周囲の大人たちに褒められていた。
『玲奈ちゃんは、将来きっと大女優になるわね』
そんな言葉を何度も聞かされるうちに、玲奈自身もいつしか、本気でそう信じるようになっていた。
いつか東京へ行き、テレビや映画に出演する。
そして、誰もが知る有名な女優になる。
それが、玲奈の夢だった。
高校を卒業すると、玲奈は地元で就職先を探すこともなく、東京へ行きたいと母親に懇願した。
『ねえ、お母さん。私、東京に行きたいの。芸能界に入って、有名になりたい』
美幸は、すぐには返事をしなかった。
『東京なんて、そんなに甘い街じゃないわよ。あんたみたいに可愛い子なんて、いくらでもいるの。芸能界なんて、簡単に入れる世界じゃないのよ』
博多の夜の世界で生きてきた美幸は、世の中の厳しさを知っていた。
だからこそ、娘には自分と同じ苦労をさせたくなかった。
水商売ではなく、昼間に働き、安定した暮らしを送り、いつか好きな人と結婚して幸せになってほしい。
それが、美幸の願いだった。
しかし、玲奈の気持ちは揺るがなかった。
『私はそう思わないわ。東京に行けば、チャンスは絶対にあると思うの。
ねえ、お母さんのお客さんで、芸能プロダクションの人を紹介してくれそうな人はいない?』
自分の容姿には自信があった。
周囲から可愛い、綺麗と言われ続けてきた玲奈にとって、女優になることは、遠い世界の夢ではなかった。
自分には、人とは違う何かがある。
東京へ行きさえすれば、その何かを見つけてもらえる。
そう信じていた。
玲奈の瞳の奥で燃える、輝きたいという思い。その火を、誰にも消すことはできなかった。
美幸は、娘の顔をじっと見つめた。
何を言っても、もう決心は変わらない。
『そこまで決めているのなら……わかったわ。誰か紹介してもらえないか、聞いてみるから。今日はもう寝なさい』
その言葉を聞いた玲奈は、ようやく安心したように笑い、自分の部屋へ戻っていった。
美幸は、その小さな背中を見送りながら、深いため息をついた。
娘の夢を応援してやりたい気持ちはある。
けれど、何の保証もない東京へ、まだ大人にもならない娘を送り出すことが、本当に正しいのだろうか。
母親としての不安は、消えることがなかった。
数日後、美幸は昔からの馴染み客である瀬野に相談した。
瀬野は、博多でも知られた水たき料亭のオーナーだった。
長年の付き合いがあり、美幸にとっては何でも話せる信頼のおける客の一人だった。
話を聞いた瀬野は、少し考えてから言った。
『東京の銀座に、知り合いのママがいるよ。大きなクラブを経営していて、顔も広い人だ。芸能関係にも、何かつながりがあるかもしれない。一度、話をしてみようか』
美幸にとって、それは思いがけない話だった。
瀬野の紹介であれば、まったく知らない相手に頼るよりも心強い。
その後、銀座のママに玲奈の話が伝わり、二人が会う機会が設けられた。
ママは玲奈の話を聞き、まずは自分のもとで生活しながら、女優への道を探ってみてはどうかと提案した。
確かな約束があったわけではない。
それでも、玲奈にとっては、東京へ踏み出すための大きな一歩だった。
そして、一か月後。
玲奈は、いよいよ東京へ向かうことになった。
19年間、ずっと一緒に暮らしてきた娘を遠い街へ送り出す日。
美幸は、なけなしの貯金をはたいて用意したお金を、玲奈の手に握らせた。
『これだけしか用意できなくて、ごめんね』
『何言ってるの。ありがとう、お母さん。私、絶対に有名になって帰ってくるから』
気丈に振る舞う娘を前に、美幸の目から涙がこぼれた。
『夢が破れたら、いつでも帰ってきていいんだからね』
その言葉に、玲奈は一瞬だけ母親の顔を見つめた。
帰るつもりなど、なかった。
自分は必ず成功する。
そう信じていたからだ。
玲奈は笑顔を作り、母親に手を振った。
やがて、新幹線がゆっくりと動き始める。
窓の向こうで、美幸の姿が少しずつ小さくなっていった。
玲奈は唇をきゅっと結び、膝の上で両手を握りしめた。
待っていてね、東京。
私は絶対に女優になってみせる。
胸いっぱいに希望を抱き、玲奈は新しい人生へと旅立っていった。
しかし、このときの彼女は、まだ知らなかった。
自分が夢見ていた華やかな世界の裏側に、どれほど厳しい現実が待ち受けているのかを。
そして、一度はすべてを諦め、故郷へ帰ることになる自分が、数年後、銀座という街で誰もが知る存在になっていくことなど、想像すらしていなかった。
19歳の少女の夢は、まだ始まったばかりだった――。