一晩が過ぎ、夕子はようやく少しだけ冷静さを取り戻していた。
昨夜は、何をどう考えても答えが見つからなかった。
長年守り続けてきた店を閉めると決め、何百人ものお客様に案内状を送り、別れを惜しんで訪れてくれる人たちを見送ってきた。
それなのに、すべての前提が崩れてしまったのだ。
まずは、香織と話をしなければならない。
夕子は携帯電話を手に取り、香織に連絡を入れた。
電話をかけても、応答はない。
メールを送っても、返事はなかった。
もう一度、電話をかけてみる。
やはり、つながらなかった。
夕子は、携帯電話を机の上に置いた。
香織とは、3年もの時間を一緒に過ごしてきた。
店で笑い合った日もあれば、仕事のことで悩み、涙を流した夜もあった。
長い時間を共有するうちに、単なるママとチーママという関係を超えた気持ちも生まれていた。
だからこそ、今回のことが理解できなかった。
倉橋との話が白紙になったのなら、香織も困っているはずだ。
少なくとも、何かひと言くらい連絡があってもいいのではないか。
それなのに、なぜ何も言ってこないのだろう。
怒りがないわけではなかった。
けれど、それ以上に寂しかった。
3年間、一緒に働いてきた時間は、いったい何だったのだろう。
夕子は、答えの出ない問いを胸の奥にしまい込んだ。
いつまでも、香織の返事を待っているわけにはいかない。
自分が判断を誤ったことは、認めなければならない。
倉橋の言葉を信じ、正式な条件が決まる前に閉店を決めてしまった。
その結果、ほかの可能性を考える機会まで失ってしまった。
悔やんでも、時間は戻らない。
今、大切なのは、この先をどうするかだった。
閉店を撤回するのか。
それとも、当初の予定どおり店を閉めるのか。
どちらを選ぶにしても、お客様への説明は避けられない。
夕子は、深く息を吐いた。
そして翌日、藁にもすがる思いで、間宮税理士の事務所を訪ねた。
『先生、どうしよう……』
事務所に入るなり、夕子は堰を切ったように話し始めた。
『お店を引き継ぐと言っていた人と話をしたんですけど、急に白紙に戻したいと言われてしまって。もう、お客様には何百枚も閉店の案内状を送ってしまったんです。ここ一か月も、たくさんのお客様に来ていただいて……。
今さら、辞めるのをやめました、なんて言えないですよね』
言葉を重ねるうちに、夕子の声はだんだん小さくなっていった。
お客様たちは、自分の引退を惜しんでくれた。
最後の時間を一緒に過ごそうと、わざわざ足を運んでくれた。
その人たちに向かって、実は店を引き継ぐ話がなくなったので、閉店を取り消します、と言わなければならない。
まるで、お客様の気持ちを裏切ってしまったようだった。
その罪悪感が、夕子の胸を締めつけていた。
話を聞き終えた間宮は、眉をひそめた。
『何だって? 白紙に戻したいだと? あれだけ自信満々に、全部自分に任せろと言っていた人間だろう。それは、あまりにも無責任じゃないか』
普段は冷静な間宮も、さすがに腹を立てた様子だった。
『先生、私がもっと慎重に考えていればよかったんです。正式に決まる前に、あの人の言葉を信じてしまって……』
『いや、今さら自分を責めても仕方がない。起きてしまったことは戻せないんだからね』
間宮は、静かに夕子を見た。
『それより、これからどうするかを考えよう』
『先生……。私、このまま店を閉めるしかないのでしょうか?』
間宮はすぐには答えなかった。
机に肘をつき、しばらく考え込んでいた。
時計の針の音だけが、静かな事務所に響いていた。
夕子には、その沈黙がひどく長く感じられた。
やがて間宮が、ふと思い出したように顔を上げた。
『そうだ。今から10年ほど前にも、似たようなことがあったんだよ』
『えっ?』
『店を閉めるという案内を出したあとで、結局、閉店を取りやめた店があってね。あのときも、どう説明したらいいものかと相談されたんだ』
夕子は、身を乗り出した。
『それで、どうなったんですか?』
『まあ、いろいろと知恵を絞ったんだよ』
間宮は、口元に意味ありげな笑みを浮かべた。
『税理士だって、数字を合わせるだけが仕事じゃない。
こういうときに、どうすれば依頼人が困らずに済むかを考えるのも、
大事な仕事なんだ』
『先生、お願いです。私にも、その知恵を貸してください』
夕子は、思わず頭を下げた。
間宮は、机の上に置いてあった白い紙を引き寄せた。
そして、ペンを手に取ると、何かを書き始めた。
しばらくして、顔を上げた。
『よし。ひとつ、考えが浮かんだぞ』
『本当ですか?』
『まず、夕子ママが一番気にしているのは、お客様にどう思われるか、ということだね』
『はい。皆さん、私が辞めると思って、わざわざ会いに来てくださったんです。あの温かい言葉を思い出すと、申し訳なくて……』
『ならば、閉店を取りやめることを、ただの気まぐれに見せなければいい』
間宮は、紙を夕子のほうへ向けた。
『お客様に納得してもらえる、きちんとした説明を考えるんだ』
夕子は、そこに書かれた文章を読み始めた。
事業承継の手続きを進める中で、税務上の確認や契約条件の調整が必要となり、予定していた引き継ぎが見送られることになった。
そのため、閉店の予定を見直し、夕子自身が引き続き店を経営することになった――。
難しい言葉が並んでいたが、言いたいことは分かった。
単に、引き継ぎの話がなくなったから店を続けます、と伝えるのではない。
事業承継に伴う手続き上の事情があり、予定を変更せざるを得なくなった。
そう説明することで、夕子自身の気まぐれではないことを伝えるのだ。
『先生……。これなら、お客様にも事情を分かっていただけるでしょうか』
『細かい事情をすべて説明する必要はないんだよ。もちろん、事実と違うことを書いてはいけない。ただ、必要以上に自分を責めるような説明をする必要もない』
間宮は、穏やかに続けた。
『夕子ママは、30年近く店を続けてきたんだ。辞めると決めたのも、店を続けると決めるのも、最終的には自分の判断だ。お客様に対して誠実に説明すればいい』
その言葉を聞いて、夕子の表情が少し和らいだ。
『そうですね……。私、何とかしなければと思うばかりで、頭がいっぱいになっていました』
『それにしても、だ』
間宮は、ふっと笑った。
『お客様からすれば、閉店すると聞いて慌てて会いに来たのに、今度は閉店しないと聞かされるわけだ。驚くだろうね』
夕子も、思わず苦笑した。
『本当にそうですよね。皆さん、何と思われるかしら』
『案外、喜んでくれるかもしれないよ。夕子ママが店を続けるなら、また飲みに行けるわけだからね』
『そうでしょうか……』
『そうさ。長年のお客様なら、夕子ママがどんな思いで店を続けてきたか、分かってくれる人も多いはずだ』
間宮の言葉は、夕子の心に少しずつ染み込んでいった。
閉店を撤回することは、恥ずかしいことだと思っていた。
けれど、考えてみれば、店を続けられる可能性が残っているのなら、それを選ぶことは決して間違いではない。
自分は、何もかも失ったわけではないのだ。
まだ店がある。
まだ、お客様がいる。
そして、もう一度やり直す時間がある。
夕子は、机の上の紙を見つめた。
『先生、本当にありがとうございます。この内容を参考に、案内状を作り直してみます』
『うん。焦らず、きちんと伝えるんだよ』
事務所を出る頃には、夕子の足取りも、来たときより少しだけしっかりしていた。
店に戻った夕子は、すぐに事務所の机に向かった。
新しい案内状を作らなければならない。
すでに閉店の知らせを送っているお客様に、もう一度、今度は営業を継続することを伝えるのだ。
一枚一枚、宛名を思い浮かべながら文章を整えていく。
これまでの長い年月、店を支えてくれたことへの感謝。
閉店の案内を送ったあと、事業承継の手続きを進める中で予定の変更が生じたこと。
そして、夕子自身が引き続き店を経営していくこと。
何度も文章を読み返し、言葉を選んだ。
お客様を騙したような気持ちにはなりたくなかった。
事情をすべて明かすことはできなくても、誠意だけは伝えたい。
そう思いながら、夕子は最後の一文を書き添えた。
長年のご愛顧に、心より感謝申し上げます。
今後とも、変わらぬお付き合いを賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
書き終えた案内状を見つめ、夕子は静かに息を吐いた。
本当に、これでいいのだろうか。
お客様は、どこまで事情を理解してくれるだろう。
なぜ一度閉店すると言った店を、また続けることになったのか。疑問に思う人もいるに違いない。
それでも、今は前に進むしかなかった。
夕子は、目元に浮かんだ涙をそっと拭った。
倉橋を信じてしまったことは、もう変えられない。
けれど、その結果にいつまでも立ち尽くしているわけにはいかない。
30年近く、何があっても守ってきた店なのだ。
最後まで、自分の意思で向き合いたい。
夕子は、ゆっくりと顔を上げた。
閉店の案内を出したときには、これが人生最後の大きな決断だと思っていた。
ところが、人生は思いがけないところで、もう一度、彼女に選択を迫った。
今度こそ、自分の足で立ち、自分の判断で決める。
夕子は、胸の中でそう誓った。
閉店の撤回。
それは、ただ予定を変更するということではなかった。
自分の人生を、もう一度、自分の手に取り戻すための決断だった。
一度は閉じようとした店の灯りが、再び銀座の夜にともった。
それは、夕子がもう一度、自分の人生を引き受けると決めた証だった。
人生には、思いどおりにならないことがある。
けれど、思いどおりにならなかったからこそ、開く扉もあるのかもしれない。
夕子の物語は、ここでひとつの区切りを迎える。
そして銀座には、まだ誰も知らない女たちの物語が、静かに息づいていた。