夕子が、長年守り続けてきた店に終止符を打つと決めてから、銀座の夜は思いがけないほど温かなものになった。
夕子の引退と、香織への引き継ぎを知らせる案内状が発送されると、店には連日、懐かしい顔が訪れるようになった。
何年も足が遠のいていたお客様。
仕事の都合で海外へ移り、帰国するたびに顔を見せてくれたお客様。
そして、店が苦しかった時期にも変わらず通い続けてくれたお客様。
案内状を読んで、最後にもう一度、夕子に会いに来てくれたのだった。
『ママ、長い間、本当にお疲れさま』
『とうとう引退か。寂しくなるなあ』
『でも、香織ちゃんが引き継いでくれるなら安心だね。ママも、これからはゆっくりできるじゃないか』
そんな言葉が、夜ごと夕子の胸に染み込んでいった。
高級なシャンパンの栓が抜かれ、グラスの中で細かな泡が弾ける。
店内には、かつての全盛期を思わせる華やかな空気が戻っていた。
笑い声が響き、懐かしい思い出話に花が咲く。
『ママ、あの頃はお互い若かったね。俺も課長くらいじゃなかったかな』
そう言う貫禄のある男性はある有名な会社の今や会長となっていた。
『そうだったわね。いろいろあったけれど、今となっては全部、いい思い出よ』
夕子は笑顔で応じながら、何度も涙をこらえた。
お客様の前で泣くわけにはいかない。
銀座の女として、最後まで笑顔でいたかった。
けれど、心の中では、言葉にならない思いが次々と込み上げていた。
振り返れば、決して平坦な人生ではなかった。
人との出会いがあり、別れがあった。
信じた人に裏切られたこともあれば、思いがけない人に救われたこともある。
病に苦しみ、経営に悩み、もう何もかも投げ出してしまいたいと思った夜もあった。
それでも、こうして最後の日々を惜しんでくれる人たちがいる。
自分は、決してひとりではなかったのだ。
夕子は、お客様一人ひとりの手を握りしめた。
『本当に、長い間ありがとうございました。皆さんには、感謝してもしきれません』
その言葉は、心の底からのものだった。
店を閉める寂しさは、もちろんあった。
30年近く、自分の人生を捧げてきた場所なのだ。簡単に割り切れるはずがない。
それでも、これだけ多くの人に惜しまれ、温かな言葉をかけてもらえるのなら、自分の銀座人生も、悪くなかったのかもしれない。
ようやく、そう思えるようになっていた。
香織への引き継ぎも、順調に進んでいるはずだった。
倉橋は、すべて自分に任せてくれと言った。
名義変更も、必要な手続きも、専門家と相談しながら進めるという。
夕子は、その言葉を信じていた。
だからこそ、お客様へ案内状も発送した。
もう、後戻りするつもりはなかったのだ。
そんな日が続いていたある日、
この期に及んで思いもよらない事が起きてしまった。
異変に気づいたのは、名義変更の具体的な手続きを進めようとした頃だった。
夕子は倉橋の携帯電話に連絡を入れた。
ところが、何度かけても、電話はつながらない。
最初は、忙しいのだろうと思った。
事業を大きく展開している人なのだから、急な仕事が入ることもあるに違いない。
夕子は、そう自分に言い聞かせた。
翌日も電話をかけた。
つながらなかった。
その次の日も、また同じだった。
胸の奥に、小さな不安が芽生え始めた。
それでも、まだ倉橋を疑う気持ちにはなれなかった。
あれほど自信たっぷりに話していた人が、まさか約束を反故にするはずはない。
きっと何か事情があるのだろう。
そう思いたかった。
数日後、ようやく電話がつながった。
『ああ、夕子ママ? ごめんごめん、ちょっとバタバタしていてさ』
受話器の向こうから聞こえてきた倉橋の声は、以前と変わらず軽かった。
『倉橋さん、お忙しいところごめんなさいね。お店の名義変更の件で、そろそろ具体的に進めたいと思っているのだけれど……』
『ああ、あれね』
倉橋は、まるで大した問題ではないかのように答えた。
『今、新しいシステムの海外展開で、融資の話がいろいろ動いていてね。銀行との調整が大変なんですよ。不動産屋の件も、担当者が忙しくて、まだ話が進んでいなくてさ』
『そうなの……』
夕子は、言葉を選びながら尋ねた。
『でも、お客様への案内も済んでいるし、引き渡しの準備もあるでしょう? 大まかな日程だけでも決めておきたいのだけれど』
『大丈夫、大丈夫。全部、俺に任せてくださいよ。心配しなくていいから』
倉橋は、そう言って電話を切った。
夕子は、携帯電話を手にしたまま、しばらく考え込んだ。
何となく、話がかみ合わない。
けれど、忙しい人なのだから、多少の遅れは仕方がないのかもしれない。
そう思い直し、夕子は再び店の仕事に戻った。
ところが、それから1週間が過ぎても、状況は変わらなかった。
2週間が過ぎても、具体的な話は何ひとつ進まない。
不動産屋からも連絡はなく、名義変更の手続きについても、何の説明もなかった。
その一方で、店には閉店を惜しむお客様が次々と訪れていた。
『ママ、あと何回、ここに来られるかな』
『香織ちゃんの店になっても、また顔を出しますよ』
お客様たちは、すでに店が引き継がれることを信じていた。
夕子もまた、その未来を信じていた。
だからこそ、何も進んでいない現実が、次第に重くのしかかってきた。
もう、曖昧な返事を聞いているわけにはいかない。
夕子は、改めて倉橋に電話をかけた。
今度こそ、はっきりと確認しなければならない。
『倉橋さん、夕子です。少しお話ししたいことがあるのでお時間作っていただきたいのですが』
『ああ、ママ。どうしました?』
『お店の引き継ぎの件なのだけれど、閉店の日も近づいているの。名義変更の手続きや、資金の準備は、予定どおり進んでいるのかしら?』
電話の向こうで、わずかな沈黙があった。
そして、倉橋は、それまでとは少し違う口調で答えた。
『ママ、そんなに急がせないでくださいよ』
夕子は、思わず息をのんだ。
『急がせるつもりはないの。ただ、こちらも閉店の準備を進めているでしょう? いつまでも予定が分からないと、どうしていいか……』
『いや、だから、今は状況が変わっているんですよ』
倉橋の声には、以前のような余裕とは違う、苛立ちのようなものが混じっていた。
『ITの事業なんて、資金の動きが急に変わることもあるんです。
今回の買い取りの資金も、予定していた話がちょっと止まってしまってね』
夕子の胸が、嫌な音を立てたような気がした。
『止まったって……どういうこと?』
『いや、いろいろ事情がありましてね。今は、すぐに資金を動かせる状態じゃないんですよ』
『でも、倉橋さん……』
夕子は、必死に冷静さを保とうとした。
『あのとき、全部引き受けるとおっしゃったでしょう?』
『ママ、そんなことを言われても困りますよ』
その言葉に、夕子の心臓が大きく跳ねた。
困るのは、自分のほうだった。
30年近く続けてきた店を閉めると決めたのも、何百人ものお客様に別れを告げたのも、倉橋の言葉を信じたからではなかったか。
『それで……引き継ぎの話は、どうなるの?』
夕子は、震えそうになる声を押さえて尋ねた。
倉橋は、あっさりと答えた。
『今回は、いったん白紙に戻してもらえませんか』
『……え?』
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
『資金の見通しが立たなくなったんですよ。今は無理です。また状況が変われば、そのときに考えましょう』
まるで、予定していた食事を取りやめるかのような口調だった。
『ちょ、ちょっと待ってください。白紙って……』
『いやあ、申し訳ない、でも、こればかりは仕方ないでしょう』
倉橋の言葉は、夕子の耳をすり抜けていった。
『それじゃあ、また何かあれば連絡しますから』
その直後、電話は切れた。
ツー、ツー、ツー……。
無機質な音だけが、耳の奥に残った。
夕子は、携帯電話を握りしめたまま、身動きひとつできなかった。
何が起きたのだろう。
今、私は何を聞いたのだろう。
あれほど自信たっぷりに、店の歴史も香織の未来も引き受けると言った男が
家でのんびり暮らせばいいと、笑っていた男が
まるで何事もなかったかのように、話を白紙に戻すと言った。
夕子の頭の中が、急速に真っ白になっていった。
しばらくして、ようやく現実が押し寄せてきた。
閉店の案内状は、すでに何百人ものお客様に送ってある。
長年の常連客も、遠方に住むお客様も、店を支えてくれた人たちも、皆、夕子の卒業を知っている。
そして、香織が店を引き継ぐことも。
今さら、何と説明すればいいのだろう。
長年築いてきた店を、どんな形で終わらせるのか。
考えなければならないことが、あまりにも多かった。
夕子は、机の上に積まれた書類を見つめた。
その中には、発送を終えた閉店の案内状の控えもあった。
一枚を手に取り、そこに記された自分の名前を見つめた。
つい先日まで、この店の未来には、まだ希望があると思っていた。
香織が引き継いでくれる。
倉橋が資金を出してくれる。
自分は、長年守ってきた店を、次の世代へ託すことができる。
そう信じていた。
ところが、すべてが一瞬にして崩れ去った。
しかも、倉橋を信じたことで、ほかに引き継ぎを考えてくれていた人たちとの話を進める機会も失っていた。
もう少し早く、別の可能性を探っていれば。。。
正式な条件が決まるまで、閉店の案内を待っていれば。。。
あのとき、倉橋の言葉を鵜呑みにせず、もっと慎重に考えていれば。。。
いくつもの『もしも』が、頭の中を駆け巡った。
しかし、どれだけ悔やんでも、過ぎた時間は戻ってこない。
夕子は、長年、銀座で生きてきた女性だった。
人を見る目には自信があった。
簡単に人を信じるような人間ではなかったはずだ。
それなのに、なぜ今回は、あれほど簡単に信じてしまったのだろうか。
その夜、店には相変わらず、お客様から温かなメッセージが届いていた。
『ママ、最後にもう一度、顔を見に行きますね』
『長い間、本当にありがとう。卒業の日まで、楽しい時間を過ごしましょう』
夕子は、画面を見つめながら、何も返信できずにいた。
つい先日まで、その言葉のひとつひとつが、どれほど嬉しかったことか。
自分は多くの人に支えられていた。
そう思えたことが、何よりの救いだった。
けれど今は、その温かささえ、胸に突き刺さるようだった。
お客様たちは、何も知らない。
夕子が店を閉めることも、香織が引き継ぐことも、すでに決まった未来として受け止めている。
だが、その未来はもう存在しなくなってしまった。
夕子は、携帯電話を机に置いた。
そして、深く息を吐いた。
自分は、これからどうすればいいのだろう。
閉店を撤回すれば、何事もなかったように店を続けられるのだろうか。
けれど、一度、閉店すると決めた店を、再び続けることができるのだろうか。
何より、これからも銀座で生きていく気力が、自分に残っているのだろうか。
答えは、どこにもなかった。
夕子は、ただ呆然と座っていた。
そして、この日を境に、銀座でも、そうそう耳にしたことのない珍事への幕開けの日が、今まさに開こうとしていた――。