【連載小説】第147話 譲渡の約束

【連載小説】第147話 譲渡の約束

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小説

ある時、銀座でさえ、そうそう耳にしたことのないような珍事が起きた。

その発端は、ひとつの店をめぐる、ごく静かな相談だった。

夕子の店は、長引く不景気の波に押し潰されそうになっていた。

以前なら当たり前のように入っていたお客様の足が、少しずつ遠のいていく。華やかな銀座の街も、時代の変化から逃れることはできなかった。
夕子自身の体調も、思うようにはいかなくなっていた。

薬を飲んでいても、以前ほどの効果を感じられない日が増え、何をするにも慎重にならざるを得なかった。店のことを考えれば考えるほど、不安は膨らんでいく。

経営の苦しさと、思うように動けなくなっていく身体。

二つの問題を抱えた夕子は、長年続けてきた店を、この先も守り続けられるのだろうかと考えるようになっていた。

幸い、これまでの年月で築いた蓄えはある。
それでも、銀座を離れるという決断だけは、どうしてもできなかった。
店を閉めることは、単に仕事を失うということではない。
自分が人生を懸けて築いてきた場所と、そこに積み重ねてきた時間に、自ら終止符を打つことだったからだ。

そんな夕子の店に、香織というチーママがいた。

三十代の若さで、店の売上を支える中心的な存在だった。
彼女のお客様は決して多いわけではなかったが、その中に、IT関連の事業で成功を収めた倉橋という男性がいた。

時代の先を読む力があり、事業を大きく成長させた人物だった。

夕子もまた、少しずつ気づき始めていた。

長年通ってくれたお客様が年齢を重ねる一方で、新しい世代のお客様とのつながりは、まだ十分とはいえない。

これから店を存続させていくには、世代交代も避けては通れない問題だった。

そんなある日のこと。
香織が夕子を夕食に誘った。

店からほど近い、評判の寿司屋だった。
席に着くと、香織はいつになく改まった様子で口を開いた。

『夕子ママ、今日はお忙しいところ、時間を作っていただいてありがとうございます』

『いいのよ。それで、話って何かしら?』
香織は少し間を置いてから、笑顔を見せた。

『辞めるとか、そういう話ではありませんから、安心してください』

『あら、そうなの? 実は少し心配していたのよ』
夕子は冗談めかして答えたが、内心ではほっとしていた。

今の夕子にとって、店を支えてくれる人間が離れていくことは、何よりも避けたいことだった。

香織は、そこで本題を切り出した。
『以前、ママがおっしゃっていたでしょう。いつか、この店を引き継いでくれる人がいたらいいのにって』

『ええ。最近は体力的にも厳しくなってきたからね。誰かに任せられたらとは思っているけれど……』

『実は、そのことでご相談があるんです』
香織は、倉橋の名前を口にした。

『私のお客様の倉橋さんに、そのお話をしたんです。そうしたら、私がこの店を引き継いだらどうか、と勧められまして』

夕子は、思わず聞き返した。
『えっ、倉橋さんが?』

『はい。買い取りに必要な資金も、出してくださるとおっしゃっているんです』

『全部、ということ?』

『そうです』
夕子は、すぐには言葉が出なかった。

店を引き継ぐという話そのものが、まだ漠然とした願いにすぎなかった。
それが突然、具体的な形を持って目の前に現れたのだ。

『それで、香織ちゃん自身はどう考えているの? この店を経営していく自信はあるの?』

香織は迷いのない表情で答えた。
『私は、これは大きなチャンスだと思っています。もちろん簡単ではないでしょうけれど、できることなら挑戦してみたいです』
その言葉には、期待と高揚がにじんでいた。

夕子は、香織の顔を見つめた。

若い人間には、これから先の時間がある。
自分には難しくなったことも、香織なら新しい発想で乗り越えていけるかもしれない。

そう考える一方で、胸の奥には、簡単には言葉にできない感情が広がっていた。

『そう……。それなら、一度、倉橋さんも交えて、ゆっくり話をしましょう。お店の外で、具体的な条件も含めてね』

『ありがとうございます。では、倉橋さんに連絡して、都合のいい日を聞いてみます』
香織の表情は明るかった。

まるで、すでに新しい人生の扉が開いたかのように。
その様子を見ながら、夕子は、まだ慎重に考えなければならないと思っていた。

倉橋は本当に、どこまで考えているのだろうか。

資金を出すという話も、店を引き継ぐという話も、これから条件を詰めていかなければならない。今の段階で、すべてが決まったわけではない。
それでも、夕子の心は揺れていた。

もし本当に、この店が自分以外の人間の手に渡るとしたら――。

長い年月をかけて築き上げてきた、自分の城。

楽しい夜もあった。苦しい夜もあった。裏切られたこともあれば、思いがけない人に救われたこともあった。

そのすべてを抱えながら、夕子はこの場所を守ってきた。

それが今、自分の体調と時代の変化をきっかけに、次の世代へと引き継がれようとしている。

寂しくないはずがなかった。

けれど、体調がさらに悪化し、孤独の中で店を続け、最後には自分の手で幕を下ろすことになるくらいなら。

まだ若い香織にバトンを渡し、店を新しい形で生き続けさせるほうが、自分らしい引き際なのかもしれない。

そう考えることで、夕子は自分の心を落ち着かせようとした。
そして、いつものプロの微笑みを浮かべた。

『分かったわ、香織ちゃん。あなたが本気でやりたいと思っているのなら、私も応援するわ。近いうちに倉橋さんを交えて、三人で具体的な条件を話し合いましょう』

『はい。よろしくお願いします』
香織は、嬉しそうに頭を下げた。

その夜、二人は穏やかな気持ちで別れた。

夕子は、これで少し先の見通しが立つかもしれないと思った。

香織は、自分の未来に大きな可能性を感じていた。

そして倉橋もまた、2人の知らないところで、何らかの考えを巡らせていたのかもしれない。
それぞれの思惑が、どこで重なり、どこですれ違うのか。

このときから夕子は、長年守り続けた店に別れを告げる覚悟を決めていた。

何百人ものお客様に閉店の案内を送り、30年近い歴史に終止符を打とうとしていたのだ。

ところが――。
銀座という街は、彼女が思い描いたとおりには、最後の幕を下ろさせてくれなかった。
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