銀座の一角に、看板を掲げず、すべての席が個室になっている和食の店があった。
知る人ぞ知る名店である。
その夜、夕子はそこで、倉橋と初めて本格的な話し合いをすることになっていた。
倉橋とは、これまで店で顔を合わせれば挨拶を交わす程度の間柄だった。深く話をしたことはない。
それだけに、今回の会食は夕子の今後を左右する、大切な時間になるはずだった。
個室に案内され、席に着いた夕子は、知らず知らずのうちに緊張していた。
やがて倉橋が現れた。
高級なスーツを、着崩すようにラフに着こなしている。
席に着くなり、手にしていた高級スマートフォンを、
見事な一枚板のテーブルに音を立てて置いた。
その何気ない仕草に、夕子は目を留めた。
人の品格は、身につけているものの値段だけでは分からない。
長年、銀座という街でさまざまな人間を見てきた夕子には、相手の何気ない振る舞いが気になることもあった。
この人は、少し自信が強すぎるのかもしれない。
そんな思いが、胸の片隅をかすめた。
けれど、今は相手の人柄を見極めている場合ではなかった。
店の将来がかかっている。
夕子は気持ちを切り替え、いつもの笑顔を浮かべた。
『倉橋さん、こんばんは。今日はお時間を作っていただいて、ありがとうございます』
『いやいや、夕子ママとゆっくり食事をするのは初めてだね。光栄ですよ』
倉橋はそう言って笑った。
夕子はさっそく本題に入ろうとした。
『それで、香織ちゃんから伺ったのですが、うちのお店を引き継いでいただけるというお話……』
『ママ、気が早いなあ』
倉橋は笑いながら、夕子の言葉を遮った。
『せっかくなんだから、まずはゆっくり食事でもしながら話しましょうよ。細かいことは、そのあとで』
『あっ、そうですね。すみません。私も、つい気持ちが焦ってしまって』
夕子は、慌てて言葉を引っ込めた。
確かに、まだ何も決まったわけではない。
そう自分に言い聞かせながらも、心の中では、一日でも早く先の見通しを立てたいと思っていた。
ところが倉橋は、料理の注文をしながら、時折スマートフォンに目を落としていた。
夕子が話しかけても、どこか上の空に見える。
せっかく大切な話をするために集まったのに……。
夕子の胸の奥に、小さな違和感が生まれた。
そのとき、ようやく香織がやってきた。
『すみませーん、遅くなりました! 美容室が混んでいて、走ってきたんです』
香織は息を弾ませながら、申し訳なさそうに頭を下げた。
夕子は、いつものように穏やかな笑顔で迎えた。
『いいのよ。香織ちゃんも忙しいんだから。さあ、何でも好きなものを頼んでね』
『ありがとうございます。それで、お話は進みましたか?』
『それが、まだこれからなの。まずは食事を楽しみましょうって』
夕子はそう答えながら、内心では落ち着かなかった。
店の引き継ぎという重大な話をしに来たはずなのに、どうも倉橋のペースに乗せられているような気がする。
けれど、倉橋に悪気があるのか、それとも普段からこういう調子の人なのか、夕子には判断がつかなかった。
食事が進むうち、話題は自然と倉橋の事業へと移っていった。
『倉橋さんの会社、ずいぶん勢いがあるそうですね。今、かなり業績がいいんでしょう?』
夕子が尋ねると、倉橋は得意げに笑った。
『いやあ、ありがたいことに、開発したシステムが当たりましてね。おかげさまで、かなり忙しいですよ』
『それは素晴らしいことですね。この不景気な時代に、事業を伸ばしていらっしゃるなんて』
『まあ、運もありますよ。でも、これからもっと面白くなりますから』
倉橋の言葉には、迷いがなかった。
自分の事業に確かな手応えを感じているのだろう。その自信が、話し方にも、身のこなしにも表れていた。
夕子は、そんな倉橋を見ながら思った。
この人なら、本当に店を引き継ぐだけの力があるのかもしれない。
そこへ、香織が身を乗り出した。
『ねえ、倉橋さん。私、本当にお店を引き継ぎたいんです。ぜひ、お願いします』
いつもより甘く、少し弾んだ声だった。
倉橋は香織に目を向けると、軽い調子で答えた。
『香織ちゃん、前にも話したでしょう。今後の事業のこともあるし、会社の形を整えて、必要な投資や経費もきちんと考えていきたいんだよ。だから、そのあたりは俺に任せてくれればいい』
『倉橋さん、ありがとう! 難しいことはよく分からないけれど、私、お店を任せてもらえたら一生懸命頑張ります』
香織の顔は、希望で輝いていた。
夕子は、その笑顔を見た。
香織は本気なのだ。
自分の店を引き継ぎ、新しい人生を始めようとしている。
そして、その夢を後押ししてくれる人が、目の前にいる。
夕子にとっても、これ以上ない話に思えた。
『それでは、譲渡の条件についてですが……』
夕子が改めて切り出したとき、倉橋はふっと笑った。
『ママ、そんなに難しく考えなくてもいいですよ』
『でも、お金のこともありますし、店の名義や契約のことも……』
『分かっていますよ。そういう細かいところは、専門家にも相談すればいいんです』
倉橋は、まるで何でもないことのように言った。
『お店の歴史も、香織のこれからも、俺が引き受けますから。明日にでも知り合いの不動産屋に話をして、手続きを進めてもらいますよ。ママはもう、これからの生活のことを考えていればいいんです。細かい話は、こちらの専門家とも相談しながら決めていきましょう』
あまりにも自信に満ちた言い方だった。
夕子は、もう一度、条件を確認したいと思った。
譲渡の金額はどうなるのか。
いつ、どのような形で資金が用意されるのか。
契約はいつ交わすのか。
本来なら、ひとつずつ確かめておかなければならないことが、いくつもあった。
しかし、倉橋の話しぶりには、そんなことを持ち出すのが野暮に思えてしまうような勢いがあった。
『さすが倉橋さん!』
香織は、満面の笑みを浮かべていた。
その姿を見ているうちに、夕子の中にあった警戒心も、少しずつ薄れていった。
本当に、この人に任せて大丈夫なのだろうか。
一瞬、そんな思いが頭をよぎる。
けれど、長年銀座で店を経営してきた自分が、何も分からない若い女性ではあるまいし、ここまで自信を持って話す人が、まさか何の見通しもなく口にしているはずはない。
それに、もう自分は疲れていた。
病気の不安を抱えながら、毎日の売上を気にし、店の将来を考え続けることに。
もし本当に引き継いでもらえるのなら、これまでの人生に、ひとつの区切りをつけられる。
その安堵が、慎重であるべき夕子の心を、知らず知らずのうちに緩ませていた。
『分かりました。倉橋さん、どうぞよろしくお願いします』
夕子は、そう答えた。
その瞬間、香織は嬉しそうに微笑み、倉橋も満足げに頷いた。
3人の間では、まるですべてが決まったかのような空気が流れていた。
けれど、本当はまだ何も決まってはいなかった。
正式な契約も、譲渡の条件も、資金の確約も。
あったのは、倉橋の自信に満ちた言葉と、それを信じようとした夕子の気持ち。そして、夢がかなうと信じた香織の期待だけだった。
会食を終えた夕子は、久しぶりに胸のつかえが取れたような気持ちになっていた。
これで、ようやく店を手放すことができる。
30年近く守ってきた場所に、自分なりの形で幕を下ろせるのだ。
家に帰った夕子は、さっそく事務室で閉店の案内状を準備し始めた。
長年お世話になったお客様、一緒に苦楽をともにした人たち、そして、この店を支えてくれた多くの人々。
一人ひとりの顔を思い浮かべながら、夕子は案内状を整えていった。
もう迷う必要はない。
そう思いたかった。
けれど、夕子はまだ知らなかった。
自信に満ちた言葉と、実際に物事を成し遂げることの間には、ときとして、思いもよらないほど深い隔たりがあるということを。
倉橋があの夜、どこまで本気で考えていたのか。
本当に実現できると信じていたのか。
それとも、その場の勢いで、少し先の未来まで約束してしまっただけなのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。
ただひとつ確かなことは、夕子がその言葉を信じ、人生の大きな決断を下そうとしていたということだった。
そして、閉店の日へ向かう時計の針は、もう動き始めていた――。