その頃、銀座の夜には、少しずつ変化が現れていた。
長く続いた不況の中で、店のあり方も、客の遊び方も変わり始めていた。
一方には、昔ながらの大箱の高級クラブがある。
そこでは、スタイル抜群のモデル体型の女性や、芸能人を思わせるような美しい女性たちが客の隣に座る。
当然、飲食代も桁違いに高い。
そんな店に顔を並べる客の中には、まだ三十代という若さで、ジャケットの下はTシャツという、これまでの銀座ではあまり見かけなかった服装の男たちも増えていた。
IT関係の経営者や若い企業家たちだった。
彼らは若さに似合わぬ金額のシャンパンを、惜しげもなく開けていく。
銀座の夜は、少しずつ新しい時代へと姿を変え始めていた。
そして、もう一方には――
小さな家庭的な店があった。
サラリーマンが仕事帰りに一人で立ち寄り、自分のポケットマネーで気軽に酒を飲み、カラオケを楽しむ。
そんな店だった。
高級クラブほど華やかではない。
けれど、長年通ってくれる常連客に支えられ、夜になるといつもの笑い声が聞こえてくる。
不況の中でも、こうした店は意外なほど根強かった。
そして――
一番苦戦していたのは、その中間に位置する店だった。
大きすぎず、小さすぎない。
料金も高すぎず、かといって安くもない。
そこにいる女性たちも、決して悪くはない。
ただ、
『飛び抜けて綺麗』
『圧倒的に明るい』
『この女性に会いたい』
と思わせるほどの何かがなければ、厳しい時代になっていた。
普通に可愛いだけでは、話題にならない。
愛嬌がなければ、なおさらだった。
銀座の夜にも、時代の波が押し寄せていた。
不況の風は、なかなか止む気配を見せなかった。
そんな頃――。
夕子は、間宮に呼ばれて事務所を訪ねていた。
湯沢が残した書類を一つひとつ確認してきた間宮から、これまでの経緯について改めて説明を受ける。
夕子自身も、ある程度のことは想像していた。
けれど――
現実は、その想像をはるかに超えていた。
夕子は、驚きと怒りを抑えながら、間宮の話を聞いていた。
『夕子ママ……ここまでの事態になるまで、どうして何も確認しなかったんだね』
責めるような口調ではなかった。
むしろ、長年の知り合いだからこその心配が滲んでいた。
夕子は俯いた。
『……言葉もありません』
そして、静かに続けた。
『いつも、湯沢さんを信じたい一心だったんです。疑うこともしないで……むしろ、よくやってくれているって感謝していました』
『私には、そこまで人に任せるという感覚が分からないな』
間宮は苦笑した。
『今回のことは、私にも責任があると思っています』
夕子は顔を上げた。
『もちろん、湯沢さんに余裕があるのなら、何らかの形でお金は返してもらいたいと思っています』
『当然だろう』
『でも……社会的に制裁を加えようとは思っていません』
間宮は少し意外そうな顔をした。
『どうしてかね?』
夕子は少し考えてから答えた。
『湯沢さんを完全に潰してしまったら、返してもらえるものまで返してもらえなくなるじゃないですか』
間宮は黙った。
『まあ……それも一理あるな』
そして、手元の書類に視線を落とした。
『ただね、厄介なのはそこなんだ』
『え?』
『経理上の数字や書類は、ある程度きちんと合っている。
だから、ここから先は「不正」として簡単に切り捨てられる話ばかりじゃない』
夕子は黙って聞いていた。
『もちろん、やり方に問題があったことは間違いない。
ただ、数字そのものが大きく食い違っているわけではないんだ』
間宮は小さく息を吐いた。
『そこが、湯沢の巧妙なところなのかもしれないな』
元国税の人間だけあって、数字の扱いには隙がなかった。
間宮自身も、それを認めざるを得なかった。
本当なら、徹底的に調べ上げたい。
しかし同時に、夕子自身にも責任があることを、間宮は分かっていた。
通帳を預けた。
現金も任せた。
数字を見ることをやめた。
そして、湯沢の言葉を信じ続けた。
『分かりました』
夕子は、静かに顔を上げた。
『書類上のことが整理されているのなら……あとは私が本人と直接話します』
『それでいいのか?』
『はい』
夕子の声には、以前とは違う落ち着きがあった。
『この件は、私自身の問題でもありますから』
数日後。
夕子は、湯沢と向き合っていた。
これまでのことを、一つずつ問いただした。
湯沢は、夕子の背後に間宮がいることを知っていた。
以前のような強気な態度は見せなかった。
『社長には、本当に申し訳ないと思っています』
『……』
『私も、やり過ぎた部分はあったと思います』
『湯沢さん……』
『ただ、すべてを悪意でやったつもりではありませんでした』
その言葉を聞いて、夕子は黙り込んだ。
それが本当なのか、嘘なのか。
もう、夕子には分からなかった。
ただ一つ分かったことがある。
人を信じるということと、すべてを任せるということは、同じではなかった。
『これからは、私も自分で確認します』
夕子がそう言うと、湯沢は静かに頷いた。
『……分かりました』
二人の間に、長い沈黙が流れた。
やがて湯沢は立ち上がった。
『それでは、これで失礼します』
『はい』
それだけだった。
かつては、
『社長、私に任せてください』
と言っていた男。
その男が今、夕子の前から静かに去っていった。
ドアが閉まる。
夕子は一人、その場に残された。
怒りもあった。
悔しさもあった。
けれど、それ以上に大きかったのは――
寂しさだった。
ふと周りを見渡す。
以前なら、店には人がいた。
相談できる人がいた。
笑い合える人もいた。
それなのに今は――
誰もいない。
夕子は、ゆっくりと目を伏せた。
自分が何年もかけて築き上げてきたものは、店でも、お金でもなかったのかもしれない。
本当に失ってしまったものは――
人だった。
そのことに気づいた時、夕子の胸に、深い孤独が広がっていった。