夕子は、重い足を引きずるようにして、ようやく自分の部屋までたどり着いた。
玄関の扉を閉めても、湯沢の言葉が頭から離れなかった。
通帳も実印も現金も、すべて私に任せていたのは社長でしょう。
ソファに身体を沈めると、夕子は天井を見つめた。
いったい私は、今まで何をしていたのだろう。
湯沢と初めて出会った日のことが、鮮明に蘇ってくる。
いつも穏やかな笑顔を浮かべ、
『社長、私に任せてください』
そう言ってくれた。
誰も信じられなくなっていた自分にとって、その言葉はどれほど心強かったことか。
野々村もいなくなった。
店長もいなくなった。
瑠璃も、木村もいなくなった。
自分の周りから人が一人、また一人と消えていく中で、
湯沢だけは最後まで自分の味方だと思っていた。
だからこそ、何も疑わなかった。
いや――
疑うことすら、もう疲れていたのかもしれない。
夕子は目を閉じた。
過去をいくら振り返っても、失った時間は戻ってこない。
それなら、今やらなければならないことを考えるしかない。
夕子はゆっくりと身体を起こした。
まず考えなければならないのは、税金のことだった。
追徴課税はいくらになるのか。
延滞税はどうなるのか。
もし最悪の場合、銀行口座を凍結されたり、財産を差し押さえられたりしたら――。
長い年月をかけて築き上げてきたものが、一瞬ですべて消えてしまうかもしれない。
湯沢のことは、その後だ。
まずは自分の会社を守らなければならない。
夕子は事務室へ向かった。
そして顧客名簿を一枚ずつめくり始めた。
その中に、ふと目が止まった名前があった。
何十年も税務署に勤め、いくつもの税務署で署長を務めた人物だった。
今は退職して税理士事務所を開いている。
昔からの客であり、夕子自身も何度も顔を合わせていた。
――この人しかいない。
藁にもすがる思いで電話をかけると、
『とにかく一度、事務所に来なさい』
という返事が返ってきた。
その言葉を聞いた瞬間、夕子の胸にほんの少しだけ光が差した。
*
夕子が向かったのは、下町の風情が残る静かな通りにある小さな税理士事務所だった。
間宮税理士事務所。
事務所には間宮先生と奥様の2人しかいなかった。
けれど、その小さな事務所の主の経歴は、並のものではなかった。
長年にわたり税務署の署長を務め、今の税務署長の中にも、かつての部下が何人もいる。
大手企業からの依頼だけを選んで受けるほどのベテラン税理士だった。
『間宮先生、お久しぶりです』
『夕子ママ、どうしたんだね。緊急の話があると聞いて驚いたよ』
その声を聞いた途端、夕子の目から涙がこぼれた。
『それが……』
夕子は、これまでの経緯を一つひとつ話した。
湯沢と出会ったこと。
会社の経理を任せるようになったこと。
通帳も現金も預けてしまったこと。
そして、税金が何年も納められていなかったこと。
間宮は、途中で口を挟むことなく、黙って話を聞いていた。
すべてを聞き終えると、深いため息をついた。
『そんなことがあったのか……』
『先生、私……どうしたらいいんでしょう』
『もっと早く気がついて、私のところへ来てくれていたらと思うよ。でも、今さらそんなことを言っても仕方がない』
間宮は静かに夕子を見た。
『今からできることを一つずつやるしかない。放っておけば本当に大変なことになるよ』
『先生、お願いします。私にはもう先生しか頼れる人がいません』
『まあまあ、落ち着きなさい』
間宮は苦笑した。
『うちは飲食店を扱ったことがないんだ。でも、ママとは昔からの付き合いだからね。今回だけは特別に引き受けよう』
『ありがとうございます、本当に助かります』
夕子は何度も頭を下げた。
久しぶりに、人に助けてもらえるという安心感を覚えた。
間宮の助言は明確だった。
まずは、湯沢の手元にあるものをすべて取り戻す。
帳簿。
通帳。
現金。
会社に関する書類。
そして、これまでの経理資料。
『税理士同士で話したほうがいい。ママが直接行って感情的になれば、話がこじれる可能性がある』
そう言われ、夕子も素直に従うことにした。
間宮から湯沢へ連絡を入れる。
それが一番早い方法だった。
そして数日後――。
間宮税理士事務所の応接室に、湯沢が姿を見せた。
いつものような余裕はなかった。
それは、その席に夕子も同席していたのだ。
背の高い身体を少し小さく見せるようにして、ソファに腰を下ろしている。
夕子の前で見せていた、あの自信に満ちた態度もない。
目の前に座る間宮の存在が、それほど大きかった。
間宮は老眼鏡をかけると、夕子の会社から提出された書類を一枚ずつ確認していた。
部屋には、紙をめくる音だけが響いている。
やがて間宮は書類を静かに机の上へ置いた。
そして湯沢をまっすぐ見た。
『湯沢くん』
『はい……』
『君は、ずいぶん大胆な仕事をしたね』
湯沢の顔がわずかに強張った。
『大胆……ですか』
『この帳簿を見れば、いろいろなことが分かる』
間宮は声を荒らげなかった。
むしろ静かだった。
だからこそ、湯沢にはその言葉が重く響いた。
『顧問料もかなり高い。その他にも、通常の顧問業務とは考えにくい支出がいくつもある』
『それは……社長からすべて任せていただいていた業務でして』
『そうか』
間宮は短く答えた。
そして一枚の書類を指で押さえた。
『これは、君の事務所の事務員の給与だね』
湯沢は黙った。
『夕子ママの会社の経費として処理されている』
『……はい』
『君は、これをどう説明するつもりなのかね』
湯沢は言葉を探した。
『会社の業務を手伝わせていた部分もありますから……』
『そうか』
また、間宮はそれ以上追及しなかった。
ただ、静かに書類を揃え直した。
その沈黙が、湯沢にはかえって恐ろしかった。
『湯沢くん』
『はい』
『私は君を責めるためにここへ呼んだわけではない』
湯沢が顔を上げた。
『だがね、税理士という仕事は、預かった人の財産を守る仕事でもある。信頼を預かる仕事なんだ』
間宮の声は穏やかだった。
『君も国税の世界にいたのなら、その意味は分かっているはずだ』
湯沢は何も答えなかった。
『だから、ここから先は余計な話をせずに、まず預かっているものをすべて返してもらおう』
間宮は淡々と言った。
『帳簿、通帳、現金、印鑑、その他会社に関する資料。すべてだ』
『……分かりました』
湯沢は小さく答えた。
夕子の前では、あれほど強気だった男が、今は視線を落としている。
その姿を見て、夕子は何も言えなかった。
怒りよりも、むしろ悲しさのほうが大きかった。
自分が信じた人は、最初から自分を騙すつもりだったのだろうか。
それとも、最初は本当に助けるつもりだったのだろうか。
夕子には分からなかった。
ただ一つ分かったことがある。
人を疑い続けてきた自分が、最後に一番疑うべき人を、何の疑いもなく信じてしまった。
その事実だけだった。
湯沢は立ち上がった。
そして深く頭を下げた。
『預かっているものは、整理してお返しします』
『そうしてくれ』
間宮はそれだけ言った。
湯沢が部屋を出ていく。
扉が閉まると、夕子は大きく息を吐いた。
長い間、自分の人生を支えてくれると思っていた男が、今は自分の目の前から静かに去っていった。
夕子はふと思った。
湯沢は、何を考えていたのだろう。
罪悪感があったのか。
それとも――。
間宮はそんな夕子を見つめながら、静かに言った。
『夕子ママ、これからが本当の勝負だよ』
夕子は顔を上げた。
『はい……』
取り戻さなければならない。
お金だけではない。
自分の人生を。
そして、自分自身を。
その時の夕子はまだ知らなかった。
この先、間宮が帳簿を一つひとつ調べていくことで、湯沢が残していった「見えない傷」が、次々と姿を現してくることを――。