それから、5年の歳月が流れていた。
夕子の身体は少しずつ動きが緩慢になり、歩くことさえ苦労するようになっていた。
身体が思うように動かなくなるにつれ、頭を使うことさえ億劫になっていった。
特に数字を見ることが苦痛だった。
幸い、店の経営はすべて湯沢に任せている。
月初に報告を受けるだけで、夕子はそれ以上、帳簿を確認することもしなくなっていた。
『社長、先月も順調でしたよ』
毎月、湯沢がそう言ってくれる。
その言葉を聞くたびに、夕子はほっとした。
それだけで十分だと思っていた。
――あの電話がかかってくるまでは。
ある日の午後だった。
電話の向こうから聞こえてきたのは、27年もの付き合いになるビルオーナーの声だった。
いつも穏やかなその人が、珍しく言葉を詰まらせている。
『社長……急で申し訳ないんだが、今からうちの管理事務所まで来られないか?』
『どうしたの?』
『ちょっと……大変なことが起きていてね』
その声に、夕子は胸の奥がざわつくのを感じた。
嫌な予感がした。
それでも何が起きているのか分からないまま、夕子は管理事務所へ向かった。
ドアを開けると、そこには青ざめた顔をしたオーナーが立っていた。
『急にどうしたの?』
夕子が尋ねると、オーナーはしばらく言葉を選ぶように黙っていた。
そして、重い口を開いた。
『社長……驚かないで聞いてくれ』
『ええ……』
『さっき、国税の人間がうちの事務所に来たんだ』
『国税……?』
『君の店について、ここ数年、確定申告がされていないと言うんだ。それで法人税やその他の税金も納められていないらしい。家賃の支払いについても確認したいと言われてね。うちにまで反面調査が入ったんだよ』
夕子の顔から血の気が引いた。
『そんな……』
『大丈夫か?』
『だって……税金のことは全部、湯沢先生にお願いしているもの。お金も通帳も預けているのよ。そんなこと、あるはずがないわ』
自分に言い聞かせるように、夕子は繰り返した。
『全部……任せているの』
『だからこそ、俺も驚いているんだ』
『私……何も知らないのよ』
その言葉を口にした瞬間、夕子の目から涙がこぼれた。
税金を払っていなかったことよりも、その事実を5年間、自分が何も知らなかったことが恐ろしかった。
『社長、早いうちに税理士と話したほうがいい。近いうちに税務調査が入る可能性もあるだろう』
『でも……私は何を聞けばいいのかさえ分からないわ』
『それでも行くしかないだろう』
『……そうね』
夕子は震える手を握りしめた。
そして、そのまま湯沢の事務所へ向かった。
受付を通り、奥の応接室へ入る。
そこには湯沢がいた。
いつもと変わらない。
背の高い身体を少し丸め、机の上の書類を静かにめくっている。
夕子の足音に気づくと、ゆっくり顔を上げた。
『おや、社長。今日はどうされたんですか?』
その声も、いつもと変わらなかった。
だからこそ、夕子は余計に怖くなった。
『湯沢先生……』
『はい』
『今、ビルのオーナーから連絡があったの』
『そうですか』
『国税の調査が入ったって……。それで、うちの会社がここ数年、申告されていないと言われたの』
夕子は、すがるように湯沢を見つめた。
『先生……何かの間違いよね?』
しばらく沈黙が続いた。
やがて湯沢は、手にしていた書類を机の上に置いた。
そして、ゆっくりと眼鏡を外した。
『……間違いではありません』
夕子の呼吸が止まった。
『え……?』
『申告していません』
その瞬間、夕子の中で何かが崩れた。
『どういう……こと?』
『そのままの意味ですよ』
『だって、先生に全部お願いしていたじゃない!』
『ええ。ですから、全部私がやっていました』
湯沢の声は、驚くほど冷静だった。
『じゃあ、どうして……』
『社長は、私に任せていたでしょう?』
『それは……』
『通帳も、印鑑も、現金も』
夕子は何も言えなかった。
『社長は毎月、私の報告を聞いて、それで納得していた。数字を確認することも、申告書を見ることもなかった』
『でも……私は先生を信じて……』
『そうですね』
湯沢はそこで初めて、夕子の目をまっすぐ見た。
その目には、もうあの頃の柔らかな笑顔はなかった。
『信じて、任せたんですよね』
夕子の身体が小さく震えた。
『それなのに……どうしてこんなことを……』
『社長』
湯沢の声は低かった。
『自分で確認することをやめたのは、誰ですか?』
夕子は言葉を失った。
『長年一緒にいた人たちを疑って、自分から遠ざけてしまった。店長も、経理の木村さんも、周りにいた人たちも』
『……』
『そして最後には、私に全部任せた』
一つ一つの言葉が、夕子の胸に突き刺さった。
『私は……病気になって……』
『ええ。大変だったと思います』
湯沢は一瞬だけ夕子を見つめた。
だが、その表情に同情はなかった。
『だからこそ、私は社長を支えてきたつもりですよ』
『じゃあ、なぜ……』
『なぜ?』
湯沢は小さく笑った。
『私を疑うことさえしなかったのは、社長じゃないですか』
夕子は息を呑んだ。
何も言い返せなかった。
『不満があるなら、国税にすべて話してください』
湯沢は淡々と言った。
『ただし、その場合、無申告だった責任を問われるのは誰か……社長なら分かりますよね』
部屋の中が、しんと静まり返った。
夕子はただ、震える手を膝の上で握りしめた。
あれほど頼りにしていた人。
あれほど優しいと思っていた人。
孤独の底にいた自分に、差し出された唯一の救いの手だと思っていた。
その手は、最初から自分を救うためのものではなかったのかもしれない。
夕子はそこで初めて気づいた。
自分が一番恐れていた「裏切り」は、ずっと目の前にあったのだ。
けれど、それを見ようとしなかったのは――
誰でもない、自分自身だった。