【連載小説】第144話 信じた人の、冷たい顔

【連載小説】第144話 信じた人の、冷たい顔

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それから、5年の歳月が流れていた。

夕子の身体は少しずつ動きが緩慢になり、歩くことさえ苦労するようになっていた。

身体が思うように動かなくなるにつれ、頭を使うことさえ億劫になっていった。

特に数字を見ることが苦痛だった。

幸い、店の経営はすべて湯沢に任せている。

月初に報告を受けるだけで、夕子はそれ以上、帳簿を確認することもしなくなっていた。

『社長、先月も順調でしたよ』

毎月、湯沢がそう言ってくれる。

その言葉を聞くたびに、夕子はほっとした。

それだけで十分だと思っていた。

――あの電話がかかってくるまでは。

ある日の午後だった。

電話の向こうから聞こえてきたのは、27年もの付き合いになるビルオーナーの声だった。

いつも穏やかなその人が、珍しく言葉を詰まらせている。

『社長……急で申し訳ないんだが、今からうちの管理事務所まで来られないか?』

『どうしたの?』

『ちょっと……大変なことが起きていてね』

その声に、夕子は胸の奥がざわつくのを感じた。

嫌な予感がした。

それでも何が起きているのか分からないまま、夕子は管理事務所へ向かった。

ドアを開けると、そこには青ざめた顔をしたオーナーが立っていた。

『急にどうしたの?』

夕子が尋ねると、オーナーはしばらく言葉を選ぶように黙っていた。

そして、重い口を開いた。

『社長……驚かないで聞いてくれ』

『ええ……』

『さっき、国税の人間がうちの事務所に来たんだ』

『国税……?』

『君の店について、ここ数年、確定申告がされていないと言うんだ。それで法人税やその他の税金も納められていないらしい。家賃の支払いについても確認したいと言われてね。うちにまで反面調査が入ったんだよ』

夕子の顔から血の気が引いた。

『そんな……』

『大丈夫か?』

『だって……税金のことは全部、湯沢先生にお願いしているもの。お金も通帳も預けているのよ。そんなこと、あるはずがないわ』

自分に言い聞かせるように、夕子は繰り返した。

『全部……任せているの』

『だからこそ、俺も驚いているんだ』

『私……何も知らないのよ』

その言葉を口にした瞬間、夕子の目から涙がこぼれた。

税金を払っていなかったことよりも、その事実を5年間、自分が何も知らなかったことが恐ろしかった。

『社長、早いうちに税理士と話したほうがいい。近いうちに税務調査が入る可能性もあるだろう』

『でも……私は何を聞けばいいのかさえ分からないわ』

『それでも行くしかないだろう』

『……そうね』

夕子は震える手を握りしめた。

そして、そのまま湯沢の事務所へ向かった。

受付を通り、奥の応接室へ入る。

そこには湯沢がいた。

いつもと変わらない。

背の高い身体を少し丸め、机の上の書類を静かにめくっている。

夕子の足音に気づくと、ゆっくり顔を上げた。

『おや、社長。今日はどうされたんですか?』

その声も、いつもと変わらなかった。

だからこそ、夕子は余計に怖くなった。

『湯沢先生……』

『はい』

『今、ビルのオーナーから連絡があったの』

『そうですか』

『国税の調査が入ったって……。それで、うちの会社がここ数年、申告されていないと言われたの』

夕子は、すがるように湯沢を見つめた。

『先生……何かの間違いよね?』

しばらく沈黙が続いた。

やがて湯沢は、手にしていた書類を机の上に置いた。

そして、ゆっくりと眼鏡を外した。

『……間違いではありません』

夕子の呼吸が止まった。

『え……?』

『申告していません』

その瞬間、夕子の中で何かが崩れた。

『どういう……こと?』

『そのままの意味ですよ』

『だって、先生に全部お願いしていたじゃない!』

『ええ。ですから、全部私がやっていました』

湯沢の声は、驚くほど冷静だった。

『じゃあ、どうして……』

『社長は、私に任せていたでしょう?』

『それは……』

『通帳も、印鑑も、現金も』

夕子は何も言えなかった。

『社長は毎月、私の報告を聞いて、それで納得していた。数字を確認することも、申告書を見ることもなかった』

『でも……私は先生を信じて……』

『そうですね』

湯沢はそこで初めて、夕子の目をまっすぐ見た。

その目には、もうあの頃の柔らかな笑顔はなかった。

『信じて、任せたんですよね』

夕子の身体が小さく震えた。

『それなのに……どうしてこんなことを……』

『社長』

湯沢の声は低かった。

『自分で確認することをやめたのは、誰ですか?』

夕子は言葉を失った。

『長年一緒にいた人たちを疑って、自分から遠ざけてしまった。店長も、経理の木村さんも、周りにいた人たちも』

『……』

『そして最後には、私に全部任せた』

一つ一つの言葉が、夕子の胸に突き刺さった。

『私は……病気になって……』

『ええ。大変だったと思います』

湯沢は一瞬だけ夕子を見つめた。

だが、その表情に同情はなかった。

『だからこそ、私は社長を支えてきたつもりですよ』

『じゃあ、なぜ……』

『なぜ?』

湯沢は小さく笑った。

『私を疑うことさえしなかったのは、社長じゃないですか』

夕子は息を呑んだ。

何も言い返せなかった。

『不満があるなら、国税にすべて話してください』

湯沢は淡々と言った。

『ただし、その場合、無申告だった責任を問われるのは誰か……社長なら分かりますよね』

部屋の中が、しんと静まり返った。

夕子はただ、震える手を膝の上で握りしめた。

あれほど頼りにしていた人。

あれほど優しいと思っていた人。

孤独の底にいた自分に、差し出された唯一の救いの手だと思っていた。

その手は、最初から自分を救うためのものではなかったのかもしれない。

夕子はそこで初めて気づいた。

自分が一番恐れていた「裏切り」は、ずっと目の前にあったのだ。

けれど、それを見ようとしなかったのは――

誰でもない、自分自身だった。
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