【連載小説】第143話 甘い言葉の代償

【連載小説】第143話 甘い言葉の代償

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それから半年が過ぎた。

いよいよ湯沢の新しい税理士事務所が開業する日を迎えた。

場所は千代田区。

税理士や士業の事務所も多く、湯沢にとっては独立という長年の夢を叶えるには申し分のない場所だった。

夕子は開業祝いに大きな胡蝶蘭を贈り、自ら事務所開きにも顔を出した。

まだ湯沢と二人の事務員だけの小さな事務所だったが、白を基調とした室内は清潔感があり、これから少しずつ顧客を増やして大きな事務所にしていくという夢が、そこかしこに感じられた。

『湯沢先生、開業おめでとうございます!』

『今日はありがとうございます。こんな立派なお花までいただいて……社長のお心遣い、本当に感謝しています』

『湯沢先生の誕生ですね』

『先生だなんて、まだちょっと照れますよ』

『何を言ってるの。もう立派な先生じゃないですか。これから忙しくなると思うけど、私の会社のこともよろしくお願いしますね』

『もちろんです』

湯沢はいつにも増して柔らかな笑顔を浮かべた。

そして、少し声を落として続けた。

『社長、これからは国税庁時代に培った私の知識と人脈をすべて使って、社長の会社を守ります』

『頼もしいわ』

『今までのような単なる経理のチェックだけではなく、税務のことから資金の流れまで、私に任せてください。通帳の管理や入出金など、細かな実務も私のほうで見ますから』

夕子は一瞬、湯沢の顔を見つめた。

けれど、その言葉に不安を感じるどころか、胸の奥が軽くなるのを感じていた。

『社長は、お店のこととご自身のお体のことだけを考えていてください』

その言葉が、今の夕子には何よりありがたかった。

『ありがとう。そこまで考えてくれているなんて……本当に心強いわ』

夕子は、湯沢をこれからも応援していこうと思った。

それからしばらくして、銀座の街に異変が起き始めた。

銀座の夜の世界は、その時々の社会情勢に大きく左右される。

日本を動かす企業の人々が集まり、さまざまな業界の人間が接待や憩いの場として利用する。

だからこそ、

『銀座の夜を見れば、その時代の景気が分かる』

そんなことさえ言われていた。

そして、ある年。

世界を揺るがす金融危機が起こった。

銀座も対岸の火事ではなかった。

それまで午前1時まで営業していても、深夜まで満席だった店が多かった。

ところが、いつの間にか12時を過ぎると、潮が引くように客が帰っていく。

会社から交通費の制限がかかり、終電で帰る人が増えたのだという。

銀座の夜から、人の姿が消えていった。

夕子の店も例外ではなかった。

売上は、目に見えて落ちていった。

銀座は家賃が高い。

そんなイメージがあるが、実際に大きな店を経営するうえで、最も重くのしかかるのは人件費だった。

広いフロアに何十人もの女の子やスタッフを抱え、そこに見合う売上がなければ、赤字はあっという間に膨らんでいく。

夕子は、ただでさえ自分の体に起きている小さな変化に怯えていた。

そこへ、店の売上低迷まで重なった。

まるで弱ったところを狙うように、次々と不安が押し寄せてきた。

ある日の午後。

夕子は湯沢の事務所を訪ねた。

『湯沢先生……最近、銀座がおかしいのよ』

『どうしました?』

『並木通りを歩いている人が少ないの。夜だけじゃないのよ。昼間から何だか街全体が静かで……怖いくらいだわ』

『世界的な金融危機ですからね。不景気になるのは、ある程度予想できます』

『今までこんな危機感を感じたことがないの。何だか不安で仕方ないわ』

湯沢は夕子を見つめ、穏やかに笑った。

『社長、そんなに心配しないでください。この金融危機も永遠に続くわけではありません。日本の経済はそんなに弱くありませんよ』

『そうだといいんだけど……このまま続いたら、本当にお手上げだわ』

『大丈夫です』

湯沢は迷いなく言った。

『私に任せてください』

その言葉を聞いた瞬間、夕子の表情が少し緩んだ。

きっと夕子は、この言葉を聞きたくてここまで来たのだ。

『いつもありがとう。先生がいてくれて、本当に心強いわ』

湯沢はそんな夕子の表情を見届けると、ふと思い出したように一枚の書類を机の上に置いた。

『あ、それから社長。売上が一時的に落ちている今だからこそ、経費について少し見直しておきました』

『経費を?』

『ええ。少しでも会社の負担を減らすためです』

夕子は書類に目を落とした。

湯沢はいつもの穏やかな表情で説明を続けた。

『私の事務所の事務員2人を社長のお店の業務を一部手伝う形にして、外部スタッフとして処理できるように考えています』

『そうなの?』

『はい。細かい入出金についても、今後はお預かりしている通帳から私のほうで処理しておきます。社長が一つひとつ確認する必要はありません』

『でも……』

夕子は一瞬だけ言葉を止めた。

けれど、その不安を口にする前に湯沢が言った。

『社長はお店のことだけを考えてください。今はそれが一番です』

その言葉に、夕子は小さく頷いた。

『……そうね。湯沢先生に任せたほうが安心だわ』

『はい。私に任せてください』

夕子は、それ以上何も聞かなかった。

それが、自分のお金の流れを少しずつ他人に委ねていく始まりだった。

やがて夕子は、通帳を見ることも、細かな数字を確認することも少なくなっていった。

『先生に任せてあるから大丈夫』

いつしか、それが夕子の口癖になっていた。

顧問料についても、契約書に記された金額を細かく確認することはなかった。

一般的な顧問料と比べても決して安い金額ではなかったが、夕子にとっては、

『これだけ私のために動いてくれているのだから当然』

という感覚だった。

そして何より、夕子はもう数字そのものを見ることに疲れていた。

店の売上。

人件費。

税金。

銀行。

通帳。

自分の体。

考えなければならないことが多すぎた。

だから、全部を湯沢に任せることで、ようやく心が休まる気がした。

湯沢は、そんな夕子の気持ちを否定しなかった。

むしろ、

『もう何も心配しなくていいですよ』

と、いつも優しく微笑んだ。

その笑顔は、夕子にとって救いだった。

けれど――

人は、すべてを誰かに委ねた瞬間から、自分のお金がどう動いているのかさえ見えなくなる。

夕子がそのことに気づいたときには、

すでに取り戻すことのできないほど長い時間が過ぎていた。
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