【連載小説】第142話 甘い救いの手

【連載小説】第142話 甘い救いの手

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本当に近づいてはいけない人というのは、
最初から怖い顔をしているわけではない。

むしろ反対だった。

他人には優しく、いつも穏やかな笑顔を浮かべている。
困っている人がいれば手を差し伸べ、弱っている人には安心する言葉をかける。

そして少しずつ、相手の自信を奪っていく。

『あなた一人では大変でしょう』

『私に任せてください』

『もう何も心配しなくていいですよ』

そんな言葉を重ねながら、いつの間にか相手の心の中に入り込み、気づいた時には、その人なしでは何も決められなくなっている。

本当に怖いのは、そんな人なのかもしれない。

けれど、その頃の夕子には、そんなことを考える余裕などなかった。

周囲の人間が次々と離れていき、誰を信じていいのか分からなくなっていた。

もともと夕子は、人一倍孤独や不安を抱えやすいところがあった。

それでも、それを努力と野心で押し隠し、ここまで這い上がってきた。

だが、病気という、自分の力ではどうすることもできない現実を突きつけられたことで、心の奥にしまい込んでいた不安や猜疑心が、少しずつ表に顔を出し始めていた。

そんな夕子の前に現れたのが、湯沢だった。

月に一度の顧問先への訪問だけだったはずが、木村が突然辞めてからは、何かと理由をつけて事務所へ顔を出すようになっていた。

木村がいなくなったことで、経理業務は完全に滞っていた。

残った2人の事務員は顧客管理や請求書の発行、イベントの準備など、それぞれの仕事を抱えている。

会計ソフトの使い方も十分には分からず、帳簿の整理や給与計算にまで手が回らない。

請求書だけでも相当な枚数になる。

発行し、郵送し、入金を確認する。

毎月繰り返される作業は、誰か一人が欠けただけで、たちまち歯車が狂ってしまう。

そして夕子には、もう一つ、どうしても自分でやらなければ気が済まない仕事があった。

お客様に送る請求書に添える、一枚の手書きの便箋だった。

夕子には、長年大切にしてきたこだわりがあった。

ただ、

『先日はありがとうございました。またお待ちしております』

と書くだけなら、印刷した文章で十分だと思っていた。

その人と交わした会話を必ず一言添える。

それが夕子なりの、お客様への心遣いだった。

『先日はありがとうございました。ゴルフはいかがでしたか? 暑い日が続いておりますので、どうぞ塩分補給も忘れずに。またお待ちしております』

たった数行の文章でも、それぞれのお客様に合わせて書く。

長年銀座で商売をしてきた夕子にとって、それは数字には表れない大切な仕事だった。

けれど最近、その手紙を書くことさえ、少しずつ苦痛になっていた。

愛用している万年筆を握っても、以前のように思うように文字が書けない。

ほんのわずかな違和感だった。

けれど夕子には、その小さな変化が何より恐ろしかった。

――これまで普通に出来ていたことが、出来なくなる。

それを認めることが、何より怖かった。

そんな夕子を横目に、湯沢は連日遅くまで事務所に残った。

山のように積まれた書類を一つひとつ整理し、滞っていた帳簿を確認し、給与計算まで手際よく片付けていく。

夕子は、そんな湯沢の姿を見ながら、何度も思った。

――この人がいてくれて、本当に助かった。

自分一人では、もうどうにもならなかった。

そんなある日、湯沢がふと顔を上げた。

『社長、少しお話ししてもいいですか?』

『どうしたの?』

『今月も売上は順調ですね。さすが社長です』

『湯沢さんに経理を手伝ってもらって、本当に助かってるわ』

夕子はそう言うと、机の引き出しから一通の封筒を取り出した。

『そうそう、これ……受け取って』

『えっ、何ですか?』

『私からの気持ちよ。こんなに助けてもらっているんだもの。今度ちゃんとお礼をしなくちゃと思っていたの』

湯沢は封筒を見つめ、それから夕子の顔を見た。

『ありがとうございます。でも、そんなに気を遣わなくても……』

『そんなわけにはいかないわよ。こんな優秀な人に来てもらっているんだもの』

夕子は笑った。

誰かに何かをしてもらうことが、いつの間にか怖くなっていた。

見返りを求められるのではないか。

裏切られるのではないか。

そんな疑いばかりが頭をよぎるようになっていた。

だからこそ、何も求めずに助けてくれる湯沢の存在は、夕子にとって特別だった。

その時だった。

湯沢が少しだけ姿勢を正し、静かに口を開いた。

『実は……まだ誰にも話していないことがあるんです』

『えっ、何なの?』

夕子は興味深そうに身を乗り出した。

『実は、独立しようと思っているんです』

『独立?』

『はい。自分で税理士事務所を立ち上げようと思って、今、物件を探し始めています』

『すごいじゃない!』

夕子の顔が明るくなった。

『まだ、どこに事務所を構えるかも決まっていませんし、銀行とも融資の話をしなければならないので、具体的なことは何も決まっていないんですけどね』

そう言ってから、湯沢は少し照れたように笑った。

『でも……最初のお客様は、社長になっていただけたらと思って、この話をしました』

夕子は一瞬、言葉を失った。

そして、嬉しそうに笑った。

『もちろんよ。私の会社でよければ、喜んで湯沢さんにお願いするわ。早く独立できるといいわね』

『ありがとうございます』

湯沢は深々と頭を下げた。

そして顔を上げると、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。

『社長は、お店のことだけを考えていてください』

『え?』

『面倒なお金のことも、細かい事務仕事も、私ができることは全部引き受けますから』

その言葉は、今の夕子にとって何より欲しかったものだった。

周りの人間が、ひとり、またひとりと離れていった。

愛する人もいなくなった。

長年信頼してきた人もいなくなった。

自分で築き上げてきたはずのものが、少しずつ手の中からこぼれていく。

そんな孤独の淵にいた夕子にとって、

『私が支えます』

という湯沢の言葉は、あまりにも優しかった。

夕子は、ほっとしたように微笑んだ。

『ありがとう……湯沢さんがいてくれて、本当に良かった』

湯沢も優しく笑った。

その笑顔を見ていると、夕子の胸の奥にあった不安が、少しずつ消えていくようだった。

――この人なら大丈夫。

――この人だけは、私を裏切らない。

そんな思いが、夕子の中に静かに芽生えていった。

けれど夕子は、まだ知らなかった。

自分が「救われた」と思って握りしめたその手が、いつか自分の人生を大きく左右することになるとは。

それが救いの手なのか。

それとも――

甘い罠へと誘う手なのか。

その答えを夕子が知るのは、まだ先のことだった。
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