【連載小説】第141話 孤独な女に差し出された手

【連載小説】第141話 孤独な女に差し出された手

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最近、野々村の姿を見なくなった。

以前なら、週に3度は店に顔を出してくれていた。

それが、この一ヶ月――
一度も現れない。

最初は仕事が忙しいのだろうと思っていた。

けれど、日が経つにつれて、夕子の胸の奥に小さな不安が芽生えてきた。

――もしかして、あの時のことを怒っているのだろうか。

美月の店のことで、野々村を問い詰めた。

あの時の自分は、少し感情的になりすぎていたのかもしれない。

そう思えば思うほど、野々村のことが気になって仕方がなかった。

気になり始めると、声を聞きたくなった。

仕事中だと分かっていた。

それでも夕子は、とうとう電話をかけてしまった。

『もしもし、野々村さん。私です』

『あっ……はいはい』

どこかよそよそしい声だった。

『お忙しいの?』

『また後でかけ直します』

ガチャ――。

電話はあっけなく切れた。

夕子は、しばらく受話器を握ったまま動けなかった。

店で聞いていた声とは、まるで別人だった。

電話の向こうにいる野々村が、急に自分の知らない世界の人になったように感じた。

――私、何をしているんだろう。

電話なんて、しなければよかった。

胸の奥に、冷たいものが沈んでいった。

その日の夜――。

1ヶ月ぶりに、野々村が店へやってきた。

けれど、いつもの穏やかな顔ではなかった。

渋い表情をしたまま、夕子の前に座った。

『こんばんは。今日は仕事中に電話してごめんなさい』

『会議中だったんだ』

『何だか冷たい声だったから……驚いたわ』

『大勢の役員の前で話せないだろう』

『この1ヶ月、来てくれなかったから心配で電話したの』

野々村はしばらく黙っていた。

そして、低い声で言った。

『……話したいことがある』

その一言で、夕子の胸がざわついた。

『え? そんな怖い顔しないでよ。どうしたの?』

嫌な予感がした。

手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。

野々村は、しばらく夕子を見つめていた。

そして、ゆっくりと言った。

『この1ヶ月、考え抜いた結論なんだ』

『……何?』

『もう、ママから卒業しようと思う』

夕子の顔から血の気が引いた。

『卒業って……もう来てくれないの?』

『ああ』

『もう会えないってこと?』

『……そういうことだ』

『そんな……』

夕子は言葉を失った。

『急にそんなこと言われても……』

『細かい話はしたくない』

野々村は苦しそうに息を吐いた。

『でも、信頼関係がなくなったら、もう終わりだろ』

『私のどこがいけないの?』

夕子の声が震えた。

『はっきり言ってよ』

『……』

『お願いだから、教えて』

夕子は半分叫ぶように言った。

野々村は、しばらく黙っていた。

そして、ぽつりと呟いた。

『以前のママだったら、もっと冷静だっただろ』

その言葉に、夕子の胸がざわついた。

『今は……』

野々村はそこで言葉を止めた。

『いや、もういい。何も言いたくない』

そう言うなり、野々村は席を立った。

夕子が呼び止める間もなく、店を出ていった。

野々村は、夕子の病気のことを知っていた。

だからこそ、今の彼女の情緒不安定な言動を責めることはできなかった。

病気のせいだと言えば、夕子を傷つける。

だから何も言わずに、離れることを選んだ。

こうしてまた1人――

夕子の周りから、人が去っていった。

その夜、夕子はどうしようもない孤独に包まれた。

誰もいない部屋。

広すぎるリビング。

高価な家具も、美術品も、今夜は何の慰めにもならなかった。

『どうして……』

夕子は1人呟いた。

『どうしてなの……。私の何がいけないの?』

医師から止められていたアルコールを、浴びるように飲んだ。

酔えば、この寂しさも消えるような気がした。

けれど――

いくら飲んでも、胸の奥に空いた穴は埋まらなかった。

夕子には、自分の感情が少しずつ変わってしまっていることが分からなかった。

そして、その孤独のすぐそばに――

新しい人間関係が、静かに近づいていた。

夕子の会社には、顧問税理士がいた。

それまでは別の担当者がついていたのだが、最近になって担当が変わった。

その男の名は、湯沢真一。

新卒で国税庁に入り、そこでキャリアを積んだ後、訳あって国税庁を退職。

現在は中堅どころの税理士事務所に勤めていた。

背が高く、物腰は柔らかい。

人当たりもよく、いつも穏やかな笑顔を浮かべている。

けれど、時折見せる眼差しには、元国税庁職員らしい鋭さがあった。

仕事は早く、細かいところにもよく気がつく。

毎月1度、前月の報告と経営についてのアドバイスを兼ねて、夕子の事務所を訪れるのが常だった。

その日――

珍しく事務員が2人とも欠勤していた。

夕子は1人で湯沢を待っていた。

『こんにちは。今日はおひとりですか?』

『そうなの。まあ、そこにかけて。コーヒー用意するわね』

『ありがとうございます』

まだ、湯沢とは数回しか顔を合わせていない。

それなのに――

なぜか夕子は、彼といると心が落ち着いた。

湯沢は運ばれてきたコーヒーにそっと口をつけた。

そして、眼鏡の奥の瞳を細めた。

『社長……少しお疲れのように見えますが』

夕子の手が止まった。

『やはり、木村さんが退職されたことで、お困りのことが多いのですか?』

夕子は、思わず息を呑んだ。

――まさか。

自分の横暴で木村を辞めさせたことが、もう彼の耳に入っているのだろうか。

気まずさに、夕子の身体がわずかに強張った。

すると湯沢は、そんな夕子の様子を見て、声をさらに柔らかくした。

『今までひとりで、これだけ大きなお店を背負ってこられたんですから……社長も大変だったでしょうね』

『……』

『これからは、面倒なお金のことも、細かい作業も、私ができる限りお手伝いします』

湯沢は微笑んだ。

『私が社長の右腕になりますから』

その言葉に、夕子の胸が熱くなった。

『だから、もう一人で抱え込まなくていいんですよ』

その一言は――

今の夕子が、何よりも欲しかった言葉だった。

乾いた土に水が染み込むように、その優しさが夕子の心の奥へ入っていく。

『……ありがとう』

夕子は小さく呟いた。

『湯沢さんが担当になってくれて、本当に良かったわ』

心の底から、ほっとしたような笑顔だった。

湯沢は、眼鏡の奥の瞳を優しく細めた。

『そう言っていただけると、私も嬉しいです』

夕子は、その笑顔を見つめた。

そして、ふと思った。

――もしかしたら、私にはこの人しかいないのかもしれない。

野々村が去った寂しさ。

離れていった人たちへの後悔。

誰にも言えない病気への恐怖。

そのすべてを抱えた夕子にとって、湯沢の言葉はあまりにも優しかった。

夕子はまだ知らなかった。

自分が今、孤独の底から差し出されたその手を、疑うことなく握ろうとしていることを。

そして――

その優しい手の先に待っているものが、

自分の人生を大きく変えることになるとは。

この時の夕子は、まだ知る由もなかった。
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