それから数日後――。
美月と夕子、2人の店に通う共通の客に、堂本という食品会社の社長がいた。
まだ四十代の若い二代目社長。
苦労を知らずに育ったせいか、どこか世間知らずなところがあり、それでいて銀座では何軒もの店にボトルを入れている、遊び慣れた男でもあった。
その日、堂本は地元の友人と気楽な飲み会をするつもりで、夕子の店を訪れた。
――いや、本当はもう一つ、理由があった。
先日、美月の店で、夕子の事務員が大きな声で話していた内容を、たまたま耳にしていたのだ。
全部を聞いたわけではない。
酒の席での話だったから、どこまでが本当なのかも分からない。
それでも堂本にとっては、そんなことはどうでもよかった。
夕子に話したくて仕方がなかった。
人の噂話というものは、不思議なものである。
自分には何の関係もない話なのに、誰かに伝えたくなる。
そして、それを伝えた時の相手の反応を見るのが、妙に楽しい。
堂本は、昔からそういう噂話が好きな男だった。
『堂本さん、こんばんは。ちょっとだけお久しぶりじゃない』
夕子がいつもの笑顔で迎えた。
『いやー、悪い悪い。檀家周りが忙しくてさ』
『でも、今日来てくれたから許してあげる!』
そんな軽いやり取りが続いた。
だが――
その空気は、ほんの一言で変わった。
『ところで、このお店って事務所はあるの?』
『あら、突然どうしたの? ええ、もちろんあるわよ。自宅兼事務所だけど、事務員が3人いて私のフォローをしてくれてるの』
『そうか……3人もいるのか』
『それがどうしたの? 珍しいじゃない。堂本さんがそんなこと聞くなんて』
『いや……どうしようかな』
堂本は、わざと少し間を置いた。
『言ったらママ、気を悪くするかもしれないんだけど……』
本当は言いたくて仕方がない。
夕子の反応を見たい。
それに、人の悪口を口にする時だけ感じる、妙な高揚感もあった。
『なに? どうしたの? 気になるじゃない』
夕子が身を乗り出した。
堂本は、とうとう口を開いた。
『この前、あるクラブへ行ったらさ。夕子ママの事務員さんが、大きな声で騒いでたんだよ』
『……うちの事務員なの?』
夕子の顔から、笑顔が消えた。
『そう。夕子ママがどうしたこうしたって言ってたぜ』
『えっ……何それ。それで、何て言ってたの?』
夕子の声が少しだけ上ずった。
『言っていいのかな……』
『いいから言って』
『急に伊藤店長が辞めただろう? そのことで、夕子ママの勘違いで辞めさせたとか、お金がなくなったのは伊藤店長の責任だとか……いろいろ言ってたぜ』
夕子の表情が、みるみる強張っていった。
『ちょっと待って。……その事務員って誰なの? 名前、言ってた?』
『そこまでは知らないよ。ただ、40代くらいで、ショートカットで、痩せてたかな』
その瞬間、夕子の頭に一人の女の顔が浮かんだ。
木村――。
『そんな話、信じないでよ』
夕子は必死に平静を装った。
『確かに突然、伊藤店長は辞めたけど、他のお店からスカウトがあって、好条件だったから移っただけなの。そんな酔っ払いの話なんて、もう信じられないわ』
そう言い切ると、夕子はその場にいられなくなった。
『ちょっとごめんなさい』
そう言い残して、店の奥にある休憩室へ入っていった。
ドアを閉めた途端、夕子は大きく息を吐いた。
――なぜ、こんな話が外に出ているの?
頭の中を、いくつもの言葉が駆け巡る。
伊藤店長のこと。
なくなったお金のこと。
そして、自分が伊藤を辞めさせたこと。
四十代。
ショートカット。
痩せ型。
そこまで揃えば、木村しかいない。
しかも夕子は以前から、木村の酒癖が良くないことも知っていた。
夕子は、嫌な予感を抱えたまま、その夜を終えた。
そして――翌朝。
『ママ、おはようございます』
木村が、いつものように出勤してきた。
何も知らない、いつもの朝だった。
『木村さん、ちょっといい?』
『はい?』
夕子は、事務室ではなく、少し離れた居間へ木村を呼んだ。
2人きりになった。
『木村さんに聞きたいことがあるの』
『……はい』
木村は何かを感じ取ったのか、思わず手に力を入れた。
『昨日ね、お客様から変な話を聞いたのよ』
『えっ……』
『私が伊藤店長を勘違いで辞めさせた。それだけじゃなくて、お金がなくなったって大騒ぎして、伊藤店長をクビにしたって……ある人が大声で話していたって聞いたの』
夕子は一気に言った。
『それって……木村さんじゃないの?』
『……』
木村の顔から、血の気が引いていった。
何か言おうとして、口を開く。
けれど、言葉が出てこない。
『否定しないのね』
夕子の声が低くなった。
『やっぱり木村さんでしょ』
『ママ……すみません』
木村は小さな声で答えた。
『たぶん……私だと思います』
『たぶん? 覚えてないの?』
『先日、安藤さんに誘われて結に行って……すごく酔っ払ってしまって。あまり記憶がなくて……』
その言葉を聞いた瞬間、夕子の顔色が変わった。
『それじゃ、安藤さんも美月ママも、このことを知ってるってことじゃない』
『……そうなりますよね』
『この手の話ってね、尾ひれがついて銀座中で噂になるのよ』
夕子の声が次第に強くなる。
『そんなことも分からないの?』
『……すみません』
『働いているところのオーナーの秘密を口外するっていうのはね、裏切りと同じよ』
――その言葉を口にした瞬間。
夕子自身の胸にも、何かが刺さった。
けれど、止められなかった。
『もう、木村さんのこと信じられない』
夕子は言った。
『今月いっぱいで、他を探してちょうだい』
木村は、あまりにも突然の展開についていけなかった。
何年も働いてきた場所だった。
それなのに、一瞬で自分の居場所がなくなった。
『……分かりました』
それしか言えなかった。
しかし――。
木村は月末まで待たなかった。
翌日。
一枚の退職願を手にして、夕子の前に立った。
『ママ、これ……』
『……』
『もう、ママの顔を見るのが辛いので』
木村はそれだけ言って、退職願を差し出した。
あまりにも、あっけない最後だった。
長年、夕子を支えてきたベテラン事務員との関係は、たった数分の会話で終わった。
そして木村が去ったあと――。
夕子は、がらんとした部屋に一人で座っていた。
静かだった。
あれほど人の気配があった場所が、妙に広く感じられる。
その静けさの中で、夕子は少しずつ冷静さを取り戻していった。
そして、ふと思った。
――私は、いったい何をしているんだろう。
感情に任せて、何人の人間を切り捨ててきたのだろう。
長年頼りにしてきた女。
店を支えてくれた店長。
そして今度は、いなくては困るベテランの事務員まで。
次々と、自分の手で辞めさせてしまった。
『……私、どうしちゃったのかしら』
誰もいない部屋で、夕子は呟いた。
自分の横暴さに、腹が立って仕方がなかった。
その時だった。
一人の男性が、夕子を訪ねてきた。
その男が、
これからの夕子の人生に、
深く関わることになるとは――
この時の夕子は、まだ知る由もなかった。
眼鏡をかけた、もの静かな税理士。
その名は――
湯沢真一。