【連載小説】第107話 由美が夢を信じた夜

【連載小説】第107話 由美が夢を信じた夜

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ここは由美の部屋。

都内でも昔ながらの人情が残る下町にある、小さな2DKのマンションだった。

決して広くはない。

けれど、隅々まで掃除が行き届き、花瓶には季節の花が一輪。

由美らしい、温かな空気が流れていた。

今日は宙とゆっくり過ごしたかった。

お店でもお酒は控えめにした。

『しばらく会えないと思っていたから……夢みたい』

そう言って由美は、そっと宙の肩にもたれた。

宙は何も言わず、ただ優しく髪を撫でる。

『何か飲む?ビール?』

『いや……今日はこのままでいたい』

どこか元気がない。

由美はその表情が気になった。

『何かあったの?仕事?』

『いや、少し疲れてるだけさ』

そう言って笑ったが、その笑顔はどこか寂しげだった。

『仕事の話はやめよう。今日は由美ちゃんの話を聞かせて』

話題を変えられた。

それでも由美には、どうしても聞いておきたいことがあった。

姿勢を正し、まっすぐ宙を見つめる。

『一つだけ聞いてもいい?』

『何?』

『宙……結婚してる?』

一瞬、宙は目を丸くした。

そして思わず吹き出した。

『俺が?』

自分の胸を指差しながら笑う。

『そう』

『見てごらん』

左手を差し出した。

そこには指輪はない。

『独り身だよ』

由美はようやく息をついた。

『ごめんなさい。変なこと聞いて』

『何かあったの?』

『昔ね、いろいろあって……。

だから少し男性を信じるのが怖くなっちゃった』

宙は静かに由美の手を握った。

『そんな顔しないで』

その手の温もりに、由美の緊張は少しずつほどけていった。

しばらく沈黙が続く。

その静かな時間を破るように、宙がぽつりと言った。

『由美ちゃん』

『うん?』

『君といると、不思議なんだ。

初めて会った気がしない』

由美は黙って耳を傾けた。

『これから先も、ずっと一緒に歩いていきたい』

そして少し照れたように笑う。

『……結婚を考えてくれないか』

由美は耳を疑った。

まだ出会って間もない。

それなのに、結婚。

嬉しいはずなのに、心が追いつかなかった。

『私……急すぎて』

その一言に、宙は少しだけ表情を曇らせた。

『迷惑だったかな』

『違うの!』

由美は慌てて首を振る。

『こんなに人を好きになったのは初めてかもしれない。

だから驚いただけ』

『本当?』

『本当』

由美は涙ぐみながら微笑んだ。

『私も……宙と一緒になりたい』

宙は何も言わず、由美を抱き寄せた。

その夜、由美は未来を信じた。

この人となら幸せになれる。

そう疑いもしなかった。

それから一か月後。

一本の電話が入った。

『由美ちゃん、俺だけど』

『今どこ?』

『知り合いの不動産会社』

宙の声はどこか歯切れが悪い。

『どうしたの?』

『いや……言いづらいんだけど』

由美の胸がざわついた。

まさか結婚の話が駄目になったのではないか。

そんな不安が頭をよぎる。

『何でも話して』

『会社の事務所がようやく決まりそうなんだ。

でも今日中に保証金の一部を入れないと他の人に決まってしまう』

『そうなの』

『設立資金は銀行に預けてある。

登記が終われば引き出せるんだけど、それまで動かせないんだ』

受話器の向こうで、小さなため息が聞こえた。

『保証金はいくら?』

『500万円。

今日必要なのは、その1割の50万円だけ』

宙は苦笑した。

『情けないよ』

その言葉を聞いた瞬間だった。

由美の胸を締めつけたのは、不安ではなかった。

困っている宙を助けたい。

その気持ちだけだった。

『私が用意する』

自分でも驚くほど自然に、その言葉が口をついて出た。

『いいの?』

『もちろん。

私たち、結婚するんでしょう』

宙は静かに笑った。

『ありがとう。

一時間くらいでそっちへ行く』

電話が切れたあとも、由美はしばらく受話器を握ったままだった。

50万円は決して小さなお金ではない。

それでも惜しいとは思わなかった。

由美は、お金を渡すのではなく、

2人の未来へ預けるのだと思っていた。

人は恋をすると、

相手を信じる理由ばかり探してしまう。

目の前に小さな違和感があっても、

『きっと大丈夫』

そう自分に言い聞かせる。

あの夜の由美も、そうだった。

結婚という2文字は、

いつしか由美の心を優しく包み込み、

そして静かに縛り始めていた。
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