ここは由美の部屋。
都内でも昔ながらの人情が残る下町にある、小さな2DKのマンションだった。
決して広くはない。
けれど、隅々まで掃除が行き届き、花瓶には季節の花が一輪。
由美らしい、温かな空気が流れていた。
今日は宙とゆっくり過ごしたかった。
お店でもお酒は控えめにした。
『しばらく会えないと思っていたから……夢みたい』
そう言って由美は、そっと宙の肩にもたれた。
宙は何も言わず、ただ優しく髪を撫でる。
『何か飲む?ビール?』
『いや……今日はこのままでいたい』
どこか元気がない。
由美はその表情が気になった。
『何かあったの?仕事?』
『いや、少し疲れてるだけさ』
そう言って笑ったが、その笑顔はどこか寂しげだった。
『仕事の話はやめよう。今日は由美ちゃんの話を聞かせて』
話題を変えられた。
それでも由美には、どうしても聞いておきたいことがあった。
姿勢を正し、まっすぐ宙を見つめる。
『一つだけ聞いてもいい?』
『何?』
『宙……結婚してる?』
一瞬、宙は目を丸くした。
そして思わず吹き出した。
『俺が?』
自分の胸を指差しながら笑う。
『そう』
『見てごらん』
左手を差し出した。
そこには指輪はない。
『独り身だよ』
由美はようやく息をついた。
『ごめんなさい。変なこと聞いて』
『何かあったの?』
『昔ね、いろいろあって……。
だから少し男性を信じるのが怖くなっちゃった』
宙は静かに由美の手を握った。
『そんな顔しないで』
その手の温もりに、由美の緊張は少しずつほどけていった。
しばらく沈黙が続く。
その静かな時間を破るように、宙がぽつりと言った。
『由美ちゃん』
『うん?』
『君といると、不思議なんだ。
初めて会った気がしない』
由美は黙って耳を傾けた。
『これから先も、ずっと一緒に歩いていきたい』
そして少し照れたように笑う。
『……結婚を考えてくれないか』
由美は耳を疑った。
まだ出会って間もない。
それなのに、結婚。
嬉しいはずなのに、心が追いつかなかった。
『私……急すぎて』
その一言に、宙は少しだけ表情を曇らせた。
『迷惑だったかな』
『違うの!』
由美は慌てて首を振る。
『こんなに人を好きになったのは初めてかもしれない。
だから驚いただけ』
『本当?』
『本当』
由美は涙ぐみながら微笑んだ。
『私も……宙と一緒になりたい』
宙は何も言わず、由美を抱き寄せた。
その夜、由美は未来を信じた。
この人となら幸せになれる。
そう疑いもしなかった。
それから一か月後。
一本の電話が入った。
『由美ちゃん、俺だけど』
『今どこ?』
『知り合いの不動産会社』
宙の声はどこか歯切れが悪い。
『どうしたの?』
『いや……言いづらいんだけど』
由美の胸がざわついた。
まさか結婚の話が駄目になったのではないか。
そんな不安が頭をよぎる。
『何でも話して』
『会社の事務所がようやく決まりそうなんだ。
でも今日中に保証金の一部を入れないと他の人に決まってしまう』
『そうなの』
『設立資金は銀行に預けてある。
登記が終われば引き出せるんだけど、それまで動かせないんだ』
受話器の向こうで、小さなため息が聞こえた。
『保証金はいくら?』
『500万円。
今日必要なのは、その1割の50万円だけ』
宙は苦笑した。
『情けないよ』
その言葉を聞いた瞬間だった。
由美の胸を締めつけたのは、不安ではなかった。
困っている宙を助けたい。
その気持ちだけだった。
『私が用意する』
自分でも驚くほど自然に、その言葉が口をついて出た。
『いいの?』
『もちろん。
私たち、結婚するんでしょう』
宙は静かに笑った。
『ありがとう。
一時間くらいでそっちへ行く』
電話が切れたあとも、由美はしばらく受話器を握ったままだった。
50万円は決して小さなお金ではない。
それでも惜しいとは思わなかった。
由美は、お金を渡すのではなく、
2人の未来へ預けるのだと思っていた。
人は恋をすると、
相手を信じる理由ばかり探してしまう。
目の前に小さな違和感があっても、
『きっと大丈夫』
そう自分に言い聞かせる。
あの夜の由美も、そうだった。
結婚という2文字は、
いつしか由美の心を優しく包み込み、
そして静かに縛り始めていた。