【連載小説】第106話 恋は、静かに始まる

【連載小説】第106話 恋は、静かに始まる

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昨日まで知らなかった人が、今は隣で眠っている。

朝の柔らかな光がカーテンの隙間から差し込み、由美はそっと隣を見つめた。

少し伸びた無精ひげ。
眠っている顔は昨夜の大人びた雰囲気とは違い、どこか少年のようだった。

そっと頬へ触れてみた。

その温かさだけで、胸の奥にあった寂しさが少しずつ溶けていくようだった。

昨夜は美月の店を出たあと、二人で部屋へ帰り、赤ワインを一本空けた。

酔いも手伝って細かな記憶は曖昧だったが、ひとつだけ確かなことがある。

こんなにも満たされた朝を迎えたのは、いつ以来だろう。

『あっ、もう起きてたの?』

唐澤が目を開け、少し照れたように笑う。

『おはよう。何か食べる?』

『朝はあまり食べないんだ。コーヒーだけもらえるかな』

『分かった。歯ブラシとタオル、ここに置いておくね』

由美は笑顔を隠すようにキッチンへ向かった。

その姿さえ嬉しかった。

好きな人のためにコーヒーを淹れる。

そんな何気ない時間が、こんなにも幸せだとは思わなかった。

ところが——。

『悪い。今日は大事な打ち合わせがあって、もう行かなくちゃならないんだ』

唐澤は時計を見るなり、慌ただしく身支度を始めた。

『えっ……もう帰っちゃうの?』

思わず声が小さくなる。

『今が一番大事な時期なんだ。会社を立ち上げる準備で毎日走り回ってる』

そう言いながらネクタイを締める姿は、昨日より少し遠く感じた。

『待って。私……ヒロシのこと、まだ何も知らないの。仕事のことも、連絡先も……』

唐澤は笑った。

『昨日ちゃんと話したよ。ほら、携帯見てごらん。"宙"って登録してあるだろ?』

由美は慌てて携帯を開く。

確かに"宙"という名前があった。

『仕事は人材派遣会社を立ち上げるところなんだ。今が正念場ってやつさ』

『私……全然覚えてない』

『ワイン飲み過ぎたからね。またゆっくり話そう』

そう言い残すと、

『コーヒーはまた今度』

と笑って部屋を出ていった。

静まり返った部屋。

さっきまで感じていた温もりが、急に遠くなった。

(どうして、あんなに急いで帰ったのかしら……)

ふと胸をよぎる小さな不安。

もしかして、結婚している人?

いや、そんなはずはない。

きっと本当に忙しいだけ。

由美はそう自分に言い聞かせた。

そして気づいた。

篠原さんへの気持ちは、もうどこにも残っていないことを。

心の中は、唐澤でいっぱいだった。

それから三日。

携帯電話を見る回数だけが増えていく。

電話は鳴らない。

(忙しいんだよね)

そう思おうとするたびに、

(でも、1分くらい電話できるでしょう?)

という寂しさが顔を出す。

我慢できなくなり、由美は電話をかけた。

『もしもし、由美だけど……今、大丈夫?』

『悪い。今ちょうど打ち合わせ中なんだ。またあとで必ずかける』

それだけだった。

由美は受話器を見つめたまま、小さくため息をついた。

その日は浴衣祭り。

週に3日だけ働く銀座の店へ向かう日だった。

慣れない浴衣に袖を通し、下駄を鳴らしながら店へ向かう。

ビルへ入ろうとした、その時だった。

携帯電話が鳴る。

『俺だよ』

その一言だけで、胸が高鳴る。

『ヒロシ!』

思わず人目を避けるようにビル脇の通路へ入った。

『今日は悪かったね。本当に大事な商談だったんだ』

『ううん。私こそ突然電話しちゃってごめんなさい』

『もう少しなんだ。長いトンネルだったけど、やっと出口の光が見えてきた』

その声には希望があった。

『じゃあ、会社はもうすぐなのね』

『ああ。ここで踏ん張らなきゃ今までの努力が全部無駄になる』

夢を語る唐澤は、自信に満ちて見えた。

由美はそんな姿を誇らしく思った。

『じゃあ……まだ会えない?』

少しだけ寂しそうに尋ねる。

すると唐澤は笑った。

『あと4時間後なら会えるけど?』

『えっ? 今日?』

『仕事が終わったら迎えに行く。一緒に帰ろう』

由美の表情がぱっと明るくなる。

『本当? 嬉しい……』

『終わったら電話して』

『うん。絶対する』

電話を切った瞬間、由美は空を見上げた。

嬉しくて、嬉しくて、

今すぐ誰かに伝えたいくらいだった。

その夜、お店で誰と何を話したのか、ほとんど覚えていない。

時計ばかり気になっていた。

早く仕事が終わらないだろうか。

早くヒロシに会いたい。

恋は、不思議だ。

たった一度の出会いで、

昨日まで見ていた景色まで変えてしまう。

由美は、その笑顔だけを信じていた。

その先に待っている運命を、

まだ何ひとつ知らないまま――。
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