昨日まで知らなかった人が、今は隣で眠っている。
朝の柔らかな光がカーテンの隙間から差し込み、由美はそっと隣を見つめた。
少し伸びた無精ひげ。
眠っている顔は昨夜の大人びた雰囲気とは違い、どこか少年のようだった。
そっと頬へ触れてみた。
その温かさだけで、胸の奥にあった寂しさが少しずつ溶けていくようだった。
昨夜は美月の店を出たあと、二人で部屋へ帰り、赤ワインを一本空けた。
酔いも手伝って細かな記憶は曖昧だったが、ひとつだけ確かなことがある。
こんなにも満たされた朝を迎えたのは、いつ以来だろう。
『あっ、もう起きてたの?』
唐澤が目を開け、少し照れたように笑う。
『おはよう。何か食べる?』
『朝はあまり食べないんだ。コーヒーだけもらえるかな』
『分かった。歯ブラシとタオル、ここに置いておくね』
由美は笑顔を隠すようにキッチンへ向かった。
その姿さえ嬉しかった。
好きな人のためにコーヒーを淹れる。
そんな何気ない時間が、こんなにも幸せだとは思わなかった。
ところが——。
『悪い。今日は大事な打ち合わせがあって、もう行かなくちゃならないんだ』
唐澤は時計を見るなり、慌ただしく身支度を始めた。
『えっ……もう帰っちゃうの?』
思わず声が小さくなる。
『今が一番大事な時期なんだ。会社を立ち上げる準備で毎日走り回ってる』
そう言いながらネクタイを締める姿は、昨日より少し遠く感じた。
『待って。私……ヒロシのこと、まだ何も知らないの。仕事のことも、連絡先も……』
唐澤は笑った。
『昨日ちゃんと話したよ。ほら、携帯見てごらん。"宙"って登録してあるだろ?』
由美は慌てて携帯を開く。
確かに"宙"という名前があった。
『仕事は人材派遣会社を立ち上げるところなんだ。今が正念場ってやつさ』
『私……全然覚えてない』
『ワイン飲み過ぎたからね。またゆっくり話そう』
そう言い残すと、
『コーヒーはまた今度』
と笑って部屋を出ていった。
静まり返った部屋。
さっきまで感じていた温もりが、急に遠くなった。
(どうして、あんなに急いで帰ったのかしら……)
ふと胸をよぎる小さな不安。
もしかして、結婚している人?
いや、そんなはずはない。
きっと本当に忙しいだけ。
由美はそう自分に言い聞かせた。
そして気づいた。
篠原さんへの気持ちは、もうどこにも残っていないことを。
心の中は、唐澤でいっぱいだった。
それから三日。
携帯電話を見る回数だけが増えていく。
電話は鳴らない。
(忙しいんだよね)
そう思おうとするたびに、
(でも、1分くらい電話できるでしょう?)
という寂しさが顔を出す。
我慢できなくなり、由美は電話をかけた。
『もしもし、由美だけど……今、大丈夫?』
『悪い。今ちょうど打ち合わせ中なんだ。またあとで必ずかける』
それだけだった。
由美は受話器を見つめたまま、小さくため息をついた。
その日は浴衣祭り。
週に3日だけ働く銀座の店へ向かう日だった。
慣れない浴衣に袖を通し、下駄を鳴らしながら店へ向かう。
ビルへ入ろうとした、その時だった。
携帯電話が鳴る。
『俺だよ』
その一言だけで、胸が高鳴る。
『ヒロシ!』
思わず人目を避けるようにビル脇の通路へ入った。
『今日は悪かったね。本当に大事な商談だったんだ』
『ううん。私こそ突然電話しちゃってごめんなさい』
『もう少しなんだ。長いトンネルだったけど、やっと出口の光が見えてきた』
その声には希望があった。
『じゃあ、会社はもうすぐなのね』
『ああ。ここで踏ん張らなきゃ今までの努力が全部無駄になる』
夢を語る唐澤は、自信に満ちて見えた。
由美はそんな姿を誇らしく思った。
『じゃあ……まだ会えない?』
少しだけ寂しそうに尋ねる。
すると唐澤は笑った。
『あと4時間後なら会えるけど?』
『えっ? 今日?』
『仕事が終わったら迎えに行く。一緒に帰ろう』
由美の表情がぱっと明るくなる。
『本当? 嬉しい……』
『終わったら電話して』
『うん。絶対する』
電話を切った瞬間、由美は空を見上げた。
嬉しくて、嬉しくて、
今すぐ誰かに伝えたいくらいだった。
その夜、お店で誰と何を話したのか、ほとんど覚えていない。
時計ばかり気になっていた。
早く仕事が終わらないだろうか。
早くヒロシに会いたい。
恋は、不思議だ。
たった一度の出会いで、
昨日まで見ていた景色まで変えてしまう。
由美は、その笑顔だけを信じていた。
その先に待っている運命を、
まだ何ひとつ知らないまま――。