『もしもし、美月ちゃん。今、お店空いてる?』
『あら、由美ちゃん。久しぶりね。大丈夫よ。近くにいるの?』
『そう。今ビルの前なの。明日休みでしょう?今日は何だか真っ直ぐ帰りたくなくて……遊びに行ってもいいかな』
『もちろん。待ってるから、早くおいで』
電話を切ったあと、美月は少し気になった。
由美ちゃんが金曜日の夜にふらりと来るのは珍しい。
また何かあったのかもしれない。
以前も付き合っていた男性と別れるたびに、お店へ来ては朝まで飲み、笑って騒いで気持ちを切り替えていた。
それが由美ちゃんなりの前の向き方だった。
その夜は珍しく店が大勢のお客様で賑わっていた。
「今日はゆっくり話せないかもしれないな」
そう思っていると、由美ちゃんが店へ入ってきた。
いつもは落ち着いたスーツ姿が多いのに、その日は淡いピンクのシフォンワンピースに白いジャケット。
どこか晴れやかな雰囲気をまとっていた。
『由美ちゃん、いらっしゃい』
『あら、今日は大盛況ね。こんな日に来ちゃってごめんね』
『何言ってるの。ちょうど紹介したい人がいるの』
私は隣の席に座っていた男性へ視線を向けた。
『こちら、唐澤さん。今日初めて来てくださったの』
唐澤さんは知り合いのママから紹介されたお客様だった。
ワイシャツのボタンをラフに開けた気取らない装い。
どこか肩の力が抜けた雰囲気なのに、不思議と下品さは感じない。
柔らかな笑顔が印象的な男性だった。
『どうぞ。ママも忙しそうだし、俺でよければお相手しますよ』
そう言って微笑んだ瞬間だった。
由美ちゃんの表情が少し変わった。
甘いマスクと人懐っこい笑顔。
初対面とは思えないほど自然な空気が流れ始めていた。
『由美ちゃん、ごめんね。少し席を外すね』
私はそう言って他のお客様の席へ向かった。
『今日はママに相談があって来たんだけど……こんなに忙しいなんて思わなくて』
由美ちゃんは照れくさそうに笑った。
『私って、昔から間が悪いのかな』
唐澤は首を横に振った。
『本当にそう思う?』
『えっ?』
『俺は逆だと思うな』
『逆?』
『間が悪かったんじゃなくて、タイミングが良かったんだよ』
由美ちゃんは不思議そうな顔をした。
『だって、こうして俺の隣に座った』
少し笑って続けた。
『こういうのをシンクロニシティって言うんだ』
『シンクロ……何ですか?』
『偶然じゃなくて必然の出会いってこと』
由美ちゃんは小さく笑った。
『そんなことってあるのかしら』
『あると思うよ』
少し間を置いて唐澤は尋ねた。
『由美ちゃんって、自分のこと好き?』
突然の質問に由美ちゃんは戸惑った。
『どうして?』
『さっきから、自分を悪く言うから』
由美ちゃんは少し視線を落とした。
『私なんて、平凡で取り柄もないし』
唐澤は静かに首を振る。
『そんなふうに自分を決めつけちゃ駄目だよ』
『……』
『人はみんな、生まれてきただけで誰かを幸せにしてる』
その言葉に、由美ちゃんは幼い頃の話を思い出した。
『私ね、早産で未熟児だったの』
『そうなの?』
『しばらく保育器に入っていたらしいの。でも元気に育って、お母さんが1日中私の顔を見ていたって話してくれた』
『ほらね』
唐澤は優しく微笑んだ。
『その時点で、もう親孝行してるじゃないか』
由美ちゃんは思わず笑顔になった。
『それからね、名前も"由美"には意味があるの』
『聞かせて』
『本当は弓矢の"弓"からきてるの。しなやかに生きてほしいって願いを込めて付けてくれたんだって』
『いい名前だ』
唐澤はそう言って頷いた。
『もっと由美ちゃんのこと知りたいな』
『私のこと?』
『うん。結婚は?』
『ずっと独身』
『それは不思議だな』
少し照れながら由美ちゃんは笑う。
『縁がないだけ』
『じゃあ、これからは縁ができるかもしれない』
その言葉は、不思議なくらい自然に胸へ入ってきた。
『ねえ』
唐澤が静かに言った。
『今日という日を、特別な日にしたい』
『特別?』
『人って最初に出会った日は、一生忘れないものだから』
由美ちゃんはしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
『私も……今日の出会いは偶然じゃない気がする』
唐澤は嬉しそうに笑った。
『唐澤さんじゃなくて、宙って呼んでよ』
『宙?』
『宇宙の宙って書いてヒロシ』
『素敵なお名前ね』
『子どもの頃はチューちゃんって呼ばれて嫌だったけどね』
二人は顔を見合わせて笑った。
気づけば時間はあっという間に過ぎていた。
その夜、二人は店をあとにした。
少し前まで篠原さんとのことで心が揺れていた由美ちゃん。
その隙間に現れた唐澤という男性は、あまりにも自然で、あまりにも優しかった。
由美ちゃんは、その笑顔の奥にある本当の姿を、まだ知る由もなかった。