土曜日の夜。
妙ちゃんと二人、美月の部屋ですき焼きを囲みながら、お笑い番組を見て笑っていた。
何気ない、いつもと変わらない夜だった。
突然、電話が鳴った。
『もしもし』
『夜遅くにごめんなさいね。今、大丈夫かしら』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、雅子ママの声だった。
『はい、大丈夫です』
思わず背筋が伸びた。
こんな時間にママから電話がかかってくることなど、一度もなかった。
胸の鼓動が急に速くなる。
何かあったのだろうか。
私は何か失敗でもしたのだろうか。
妙ちゃんも心配そうに私の顔を見つめていた。
『突然こんなことを聞くのは変だけど、美月ちゃん、今どのくらい預金があるの? 大体でいいから』
『えっ……預金ですか?』
あまりにも意外な質問に言葉を失った。
『通帳を見ないと分かりません』
『そうよね。でも、あなたのことだから全くないということはないでしょう』
『少しはあると思いますけど……』
どうして、そんなことを聞くのだろう。
頭の中は疑問でいっぱいだった。
すると雅子ママは、いつもと変わらない穏やかな口調で言った。
『実はね、ここしばらくずっとあなたのことを考えていたの。このままうちの店にいるより、今のうちに独立したほうが、あなたのためなんじゃないかと思うようになったのよ』
『……えっ』
その一言で、頭の中が真っ白になった。
独立……。
私が……?
それとも――。
もしかして、辞めてほしいということなの?
『美月ちゃん、聞いてる?』
『は、はい……聞いています』
自分でも分かるほど声が震えていた。
『あの……独立というのは、私がお店を持つということですか?』
『そういうこと』
『考えたこともありませんでした。突然のお話で、頭の整理がつかなくて……。少しだけ時間をいただけませんか』
『もちろんよ。急に返事なんてできないわよね』
雅子ママは優しく笑った。
『来週の火曜日、時間を取るから一緒にお茶をしましょう。その時までに、よく考えておいて。それから預金も調べておいてね』
『分かりました』
『じゃ、おやすみなさい』
電話は静かに切れた。
受話器を置いたまま、私はしばらく動くことができなかった。
時間だけがゆっくり流れていく。
『美月ちゃん』
妙ちゃんの声で我に返った。
『ごめん……』
『ママ、何て言ってたの? 顔色悪いよ』
美月は力なく笑った。
『私……辞めなさいって言われたみたい』
『えっ? そんなわけないじゃない』
妙ちゃんは驚いた顔で首を振った。
『美月ちゃんが辞めるなら、お店のみんなが驚くよ。そんなこと、あるはずない』
『でも、急に独立したらどうかって……』
『それってリストラじゃないよ』
妙ちゃんは私の目をまっすぐ見つめた。
『ママは、美月ちゃんならできるって思ったから話したんじゃないの』
その言葉を聞いた途端、張りつめていたものが切れた。
涙があふれて止まらなかった。
『でも……私にできると思う?』
美月は首を横に振った。
『今までママのお店で働いてきただけ。請求書だって書いたことがないし、経理も分からない。お客様が来てくださる保証もない。お店を持つのに、いくら必要なのかさえ知らないの』
不安ばかりが次々と押し寄せてくる。
しかも返事をするまで、あと三日しかない。
三日で人生を決めるなんて、私にはあまりにも重すぎた。
妙ちゃんは黙って私の話を聞いてくれた。
『美月ちゃん』
『なに?』
『怖いんだよね』
美月は何も言えず、小さくうなずいた。
怖かった。
失敗することも。
今の居場所を失うことも。
何より、自分にその力があるのか分からなかった。
その夜は、妙ちゃんが帰ったあとも眠ることができなかった。
部屋の静けさの中で、雅子ママの言葉だけが何度も頭の中を巡っていた。
「独立したらどうかしら」
断れば、今まで通りの日々が続く。
それが一番楽なのかもしれない。
でも心のどこかで、小さな声が聞こえていた。
『このままで、本当にいいの?』
その問いに答えは出なかった。
美月に与えられた時間は、たった三日。
人生で初めて、自分の未来と真正面から向き合わなければならない夜が始まった。