雅子ママから独立の話を聞いてからというもの、私の心には二つの声が住みついてしまった。
一つは、不安ばかりを並べる声だった。
「私にお店なんてできるはずがない。
資金も足りない。
担当のお客様だってほとんどいない。
今までのように気楽に働いていたほうが幸せじゃない。
ママには正直に『私には無理です』とお願いしよう」
もう一つは、小さく、それでも消えることのない声だった。
「このままで本当にいいの?
今しかできないことがあるんじゃない?
好きな仕事だからこそ、一度くらい自分の力を試してみてもいいんじゃない?」
二つの声は、朝も昼も夜も私の頭の中で言い争っていた。
答えは出ないまま、約束の日がやってきた。
待ち合わせは銀座ではなく、麻布十番の落ち着いたレストランだった。
外国人の姿も見える、おしゃれな店内。
けれど、その日の私は景色を楽しむ余裕などなかった。
雅子ママは穏やかに微笑みながら言った。
『今日はありがとう。早速だけど、美月ちゃんの気持ちを聞かせて』
私は深呼吸をした。
本当は相談するつもりだった。
「無理です」と言うつもりだった。
それなのに――。
『いろいろ考えましたが……前向きに挑戦してみようと思います』
言った瞬間、自分で驚いた。
私、今なんて言ったの?
頭の中は迷っているのに、口だけが勝手に返事をしていた。
雅子ママは嬉しそうに笑った。
『そう。良かった』
その笑顔を見た瞬間、美月はもう後戻りできないことを悟った。
『じゃあ具体的な話を始めましょう』
美月は小さくうなずいた。
『預金は調べてくれた?』
美月は用意してきたメモを差し出した。
雅子ママは金額を見つめ、静かに言った。
『正直に言うわね。この金額では、そのままお店を持つのは厳しいわ』
胸が締めつけられた。
決して少ない貯金ではなかった。
贅沢もせず、何年もかけて必死に貯めた私の財産だった。
それでも銀座では足りない。
その現実を初めて突きつけられた。
『小さいお店でも難しいでしょうか』
また口が勝手に動いていた。
さっきから私は、不思議なくらい前向きなことばかり言っている。
その瞬間、美月は気づいた。
本当は――。
本当は美月自身がお店を持ちたかったのだ。
怖い。
でも、やってみたい。
その気持ちを、美月はずっと心の奥へ押し込めていただけだった。
雅子ママは少し考えてから言った。
『小さいお店なら可能性はあるかもしれないわ。不動産屋さんに知り合いがいるから紹介するわね。何軒か見つけたら、一緒に見に行きましょう』
話は少しずつ現実になっていった。
それでも美月には、自分のこととは思えなかった。
まるで誰か別の人の人生を横で見ているような、不思議な気持ちだった。
美月は思い切って尋ねた。
『今さらですが……本当に私にできますか』
雅子ママは少しだけ黙った。
そして静かに美月を見つめた。
『その答えは、誰にも分からないわ』
美月は息をのんだ。
『でもね、美月ちゃん。できるかできないかを考えていたら、一生前には進めないの』
雅子ママの声は穏やかだった。
『人生は、自分で決めるものよ。
店を育てるのも、潰すのも、全部ママ次第。
だから覚悟だけは、人に決めてもらっちゃだめ』
その言葉が胸に深く響いた。
『私は、美月ちゃんなら挑戦する価値があると思ったから、この話をしたの』
美月はゆっくりとうなずいた。
『ありがとうございます』
その返事をした瞬間、美月の中で何かが静かに動き始めた気がした。
不安は消えていなかった。
自信もなかった。
それでも美月は、自分の口で「挑戦する」と答えていた。
あの日の美月は、まだ知らなかった。
その一言が、これからの人生を大きく変えていくことになるということを。