ここはヴィーナスの隣にある洒落たカフェ。
夕方になると、黒服さんがスカウトした女の子と面接をしたり、出勤前のホステスたちが集まったりする。
店内にいるほとんどが夜の仕事に携わる人たちだった。
『恵子さんの気持ちは分かるよ。井上さんは一番の太客だからね』
『もう私、我慢の限界よ!井上さんが誘ったなんて、あのさゆりって子の嘘に決まってるわ』
『真実は当事者しか分からないよ。どっちが誘ったかよりも、これから恵子さんがどう動くかのほうが大事なんだ』
『もう来ないって怒ってるし、どうしたらいいのかしら』
さっきまでの勢いが嘘のように、恵子さんは肩を落とした。
『そこが腕の見せ所じゃないのか。男性の面子を立てながら会社まで菓子折りを持って謝りに行く。それが一番だと思うよ。井上さんだって店は気に入っているはずだ。ただ怒りの納め方が分からないだけなんだから』
『何で私が謝らなきゃいけないのって思うけど……ここは仕方ないか』
『そうだよ。さゆりのことは俺に任せてくれ。もしかしたら、あの子は近いうちに辞める気がする。まあ、俺の勘だけどな』
それから数日後のことだった。
『あれ? さゆり? さゆりじゃないか! 久しぶりだな』
新規のお客様の丸山さんという五十代くらいの男性が、さゆりちゃんを見るなり声を掛けた。
『えーと……どこかでお会いしました?』
『何とぼけてるんだよ。俺だよ、丸山』
『ああ、丸山さん。お久しぶりです』
『本当に分かってるのか? まあいいけど、元気にしてたか』
『ええ、まあ。ちょっと失礼します』
そう言うと、さゆりちゃんは足早に席を立ち、店の奥へ行ってしまった。
『すみません。急にどうしたのかしら。初めまして、私、美月と申します。さゆりちゃんのお知り合いなんですか?』
『いやぁ、驚いたよ。二年ぶりかな。前に勤めていた店で知り合って、何度か店の外でも会ったことがあるんだ』
『そうだったんですか』
男性の中には、悪気なく過去のことを話してしまう人がいる。
丸山さんも、そんな一人だったのかもしれない。
『実はここだけの話だけど、前の店では有名な子だったんだよ。担当の女の子にいじめられたとか、仕返しだとか、いろいろトラブルが絶えなくてね。結局、その店にはいられなくなって、ある日突然いなくなったんだ』
丸山さんは少し間を置いて続けた。
『それに家庭環境も複雑だったらしい。義理のお母さんから小さい頃からつらく当たられて、高校生の頃にはかなり荒れていたって聞いたよ。本当かどうかは分からないけどね』
美月は黙って聞いていた。
丸山さんの話がどこまで本当なのか、それは誰にも分からない。
けれど、もしその話が事実なら、さゆりちゃんの心の中には、誰にも見えない傷が残っていたのかもしれない。
そう思うと、不思議と責める気持ちだけではいられなかった。
それから数日後。
さゆりちゃんは、誰にも何も告げることなく店を辞めた。
あまりにも突然のことだった。
あれほど毎日のように顔を合わせていたのに、まるで最初からそこにいなかったかのように姿を消した。
あの日の出来事も、丸山さんから聞いた話も、結局どこまでが真実だったのかは分からない。
ただ一つ思うことがある。
もし心に消えない傷を抱えていたのなら、いつかその傷が癒え、自分自身を大切にできる日が来てほしい。
美月は、そう願わずにはいられなかった。