『はあ? じゃないわよ。私の客を誘うなんてさ。全部本人から聞いたわよ』
恵子さんの怒鳴り声が店内に響いた。
『井上さんのことですよね。恵子さん、何か誤解しているんじゃないですか』
さゆりちゃんは落ち着いた口調で答えた。
『誤解! 何が誤解よ。あんたから誘っといて逃げたんでしょ。井上さん、もうこの店には二度と来ないって! どうしてくれるのよ!』
『だから誤解だって言いましたけど。誘ったのは井上さんのほうです。私はお断りしました。でも、それでも強引で、無理やりホテルまで連れて行かれたんです。だから隙を見て逃げたんですよ。どっちが被害者なのか、もうお分かりですよね』
『そんなの嘘よ。あの井上さんが強引に誘うなんてするわけないじゃない。あんたのでまかせよ』
『じゃあ聞きますけど、私から誘ったなら逃げる必要なんてありませんよね。逃げられたことが悔しくて、人に言われる前に私から誘ったことにしただけじゃないんですか』
『井上さんはね、ああ見えて根は真面目なの。あんたが誘ったに決まってるわよ』
『恵子さん、さっきから"あんた"っておっしゃっていますけど、私はさゆりという名前があります』
『話をすり替えないでよ。あんたなんて、あんたで十分よ!』
二人の言い分は真っ向から食い違っていた。
どちらが本当なのか、その場にいた私には分からない。
ただ、恵子さんの怒りは本物だった。
そして、さゆりちゃんは少しも動じることなく、一つ一つ言葉を返していた。
その姿を見ているうちに、私はだんだんさゆりちゃんという人が分からなくなってきた。
これまで私が見てきた彼女と、今ここで目の前にいる彼女。
そのどちらが本当なのだろう。
店内の空気が張りつめた、その時だった。
店長が慌てて入ってきた。
『何してるんだ。喧嘩はやめろ。恵子さん、ちょっと話がある。来てくれないか』
そう言うと、店長は恵子さんを店の外へ連れ出していった。
残された女の子たちは、さっきまでの剣幕に圧倒されたまま誰も口を開かなかった。
店内には重苦しい静けさだけが残っていた。
しばらくすると、さゆりちゃんが私の隣へ来て、小さな声で言った。
『美月さん、話聞いてました?』
『まあね』
『恵子さんには参りますよね。あんな年だから焦りがあるのかもしれないけど、大きな声なんか出しちゃって、みっともない』
私は何も答えなかった。
『本当のことは内緒にしておいてくださいね。でも今日は清々したわ』
そう言って、さゆりちゃんは小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、私は胸の奥がぞくりとした。
なぜなのか、自分でもうまく説明できない。
ただ、その笑顔が私にはとても冷たく見えた。
私は黙っていることができなかった。
『さゆりちゃん。あなたが何を思っているのかは分からない。でも、人の気持ちを弄んだ結果だとしたら、"清々した"なんて言うものじゃないと思うよ』
『もう、美月さんまでそんなこと言うの』
さゆりちゃんは幼い子どものような寂しそうな表情を浮かべた。
以前の美月なら、その表情を見て心が揺れたかもしれない。
でも、今は違った。
『表沙汰にするつもりはないわ。でも、お客様を復讐の相手として誘うのは、やめたほうがいいと思う。自分をそんなに安売りしちゃだめよ』
『今度はお説教ですか? そんな話、聞きたくないなぁ』
そう言うと、さゆりちゃんは軽く肩をすくめ、別の席へ歩いて行った。
その後ろ姿を見送りながら、私は胸の中に小さな不安が広がっていくのを感じていた。
この子は、美月が思っていたような子ではないのかもしれない。
そんな思いが、静かに心に残った。