【連載小説】第82話 笑顔の奥に見えたもの

【連載小説】第82話 笑顔の奥に見えたもの

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『はあ? じゃないわよ。私の客を誘うなんてさ。全部本人から聞いたわよ』

恵子さんの怒鳴り声が店内に響いた。

『井上さんのことですよね。恵子さん、何か誤解しているんじゃないですか』

さゆりちゃんは落ち着いた口調で答えた。

『誤解! 何が誤解よ。あんたから誘っといて逃げたんでしょ。井上さん、もうこの店には二度と来ないって! どうしてくれるのよ!』

『だから誤解だって言いましたけど。誘ったのは井上さんのほうです。私はお断りしました。でも、それでも強引で、無理やりホテルまで連れて行かれたんです。だから隙を見て逃げたんですよ。どっちが被害者なのか、もうお分かりですよね』

『そんなの嘘よ。あの井上さんが強引に誘うなんてするわけないじゃない。あんたのでまかせよ』

『じゃあ聞きますけど、私から誘ったなら逃げる必要なんてありませんよね。逃げられたことが悔しくて、人に言われる前に私から誘ったことにしただけじゃないんですか』

『井上さんはね、ああ見えて根は真面目なの。あんたが誘ったに決まってるわよ』

『恵子さん、さっきから"あんた"っておっしゃっていますけど、私はさゆりという名前があります』

『話をすり替えないでよ。あんたなんて、あんたで十分よ!』

二人の言い分は真っ向から食い違っていた。

どちらが本当なのか、その場にいた私には分からない。

ただ、恵子さんの怒りは本物だった。

そして、さゆりちゃんは少しも動じることなく、一つ一つ言葉を返していた。

その姿を見ているうちに、私はだんだんさゆりちゃんという人が分からなくなってきた。

これまで私が見てきた彼女と、今ここで目の前にいる彼女。

そのどちらが本当なのだろう。

店内の空気が張りつめた、その時だった。

店長が慌てて入ってきた。

『何してるんだ。喧嘩はやめろ。恵子さん、ちょっと話がある。来てくれないか』

そう言うと、店長は恵子さんを店の外へ連れ出していった。

残された女の子たちは、さっきまでの剣幕に圧倒されたまま誰も口を開かなかった。

店内には重苦しい静けさだけが残っていた。

しばらくすると、さゆりちゃんが私の隣へ来て、小さな声で言った。

『美月さん、話聞いてました?』

『まあね』

『恵子さんには参りますよね。あんな年だから焦りがあるのかもしれないけど、大きな声なんか出しちゃって、みっともない』

私は何も答えなかった。

『本当のことは内緒にしておいてくださいね。でも今日は清々したわ』

そう言って、さゆりちゃんは小さく笑った。

その笑顔を見た瞬間、私は胸の奥がぞくりとした。

なぜなのか、自分でもうまく説明できない。

ただ、その笑顔が私にはとても冷たく見えた。

私は黙っていることができなかった。

『さゆりちゃん。あなたが何を思っているのかは分からない。でも、人の気持ちを弄んだ結果だとしたら、"清々した"なんて言うものじゃないと思うよ』

『もう、美月さんまでそんなこと言うの』

さゆりちゃんは幼い子どものような寂しそうな表情を浮かべた。

以前の美月なら、その表情を見て心が揺れたかもしれない。

でも、今は違った。

『表沙汰にするつもりはないわ。でも、お客様を復讐の相手として誘うのは、やめたほうがいいと思う。自分をそんなに安売りしちゃだめよ』

『今度はお説教ですか? そんな話、聞きたくないなぁ』

そう言うと、さゆりちゃんは軽く肩をすくめ、別の席へ歩いて行った。

その後ろ姿を見送りながら、私は胸の中に小さな不安が広がっていくのを感じていた。

この子は、美月が思っていたような子ではないのかもしれない。

そんな思いが、静かに心に残った。
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