【連載小説】第81話 嵐の序章

【連載小説】第81話 嵐の序章

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夜更けだった。

一本の電話が鳴った。

『もしもし……美月さんですか?』

受話器の向こうから聞こえてきたのは、かすかに震える声だった。

『さゆりちゃん?どうしたの?』

『今から……お家へ伺ってもいいですか。相談したいことがあって……』

いつもの明るい彼女とは違う。

何かただならぬことが起きたのだと、美月は直感した。

『いいわ。気をつけて来てね』

それから三十分ほどして、さゆりは部屋を訪ねてきた。

顔色は青白く、唇も震えている。

『寒かったでしょう。コーヒーでも飲む?』

『ありがとうございます……』

温かいカップを両手で包み込んだまま、しばらく俯いていた。

やがて、小さく口を開いた。

『私……とんでもないことをしてしまいました』

『どうしたの?』

『恵子さんのお客様の井上さん……覚えてますか?』

『もちろん。あの部長さんでしょう』

『実は……ホテルまで行ってしまったんです』

思わず持っていたカップを落としそうになった。

『えっ?』

『でも……怖くなって』

『怖くなって?』

『井上さんがお風呂に入った隙に、逃げてきました』

美月は言葉を失った。

「何を考えてるの。そんなことしたら大変なことになるじゃない』

さゆりは俯いたまま、小さく呟いた。

『……私から誘ったんです』

『え?』

『恵子さんにずっと無視されて、悔しくて……。

井上さんを奪えば仕返しになるって思ってしまって』

『そんなことで仕返しになるはずないでしょう』

美月は思わず声を強めた。

『傷つくのは、結局あなたよ』

『分かってます……。

でもホテルまで行って急に怖くなって……。

私、最低ですよね』

泣き出しそうなさゆりを見ながら、美月は考えた。

若さゆえの過ち。

そう思いたかった。

『井上さんも立場のある人だし、自分から今日のことを言いふらすような人じゃないと思う。

だから、このことは忘れなさい。

今まで通り仕事をすれば大丈夫よ』

『……そうでしょうか』

『大丈夫」

その言葉で少し安心したように、さゆりは微笑んだ。

しかし――

その夜、美月の楽観は見事に裏切られることになる。

それは嵐の前の、静かな序章に過ぎなかった。

翌日。

出勤すると、さゆりは店長に呼ばれていた。

『今日、なぜ呼ばれたか分かるな』

店長の顔は険しかった。

『朝から井上さんから電話があった。

"さゆりに騙された。店の教育はどうなっている"ってな。

最後には"辞めさせろ"とまで言われたよ」

さゆりは目に涙を浮かべた。

『違うんです……。

私から誘ったなんて誤解です。

ホテルへ行ったのは私も悪いです。

でも、井上さんに何度も誘われて……断りきれなくて…』

店長は大きく息を吐いた。

『どちらにしても軽率だった。

店の信用に関わる。

そんな気がないなら最初からホテルへ行くな』

『……申し訳ありません』

『今回は俺から恵子さんにも説明しておく。

もう二度と同じことはするな』

『はい……』

深く頭を下げたさゆりは、店長の部屋を出た。

そして誰も見ていないと思ったのか、

口元だけで小さく笑った。

ほんの一瞬だけ、

舌をぺろりと出した。

その表情は昨夜、美月の部屋で涙を流していた少女とは別人のようだった。

その頃、店内ではすでに火種が燃え広がっていた。

『聞いてよ!』

恵子さんの怒鳴り声が店中に響く。

『あのさゆり、自分から井上さんをホテルへ誘っておいて、お風呂に入ってる間に逃げたんですって!

井上さんから"二度と店には行かない"って電話があったのよ!』

『ひどい話ね』

みどりさんも顔をしかめた。

『最初から胡散臭いと思ってたのよ。

あんな子、お店に置いておけないわ』

『私が何年かけて築いたお客様だと思ってるの!』

恵子さんはテーブルを叩いた。

その音が店内に響く。

その瞬間だった。

『おはようございます』

何も知らないような笑顔で、さゆりが店へ入ってきた。

店内の空気が凍りつく。

恵子さんは一直線に歩み寄った。

『あんた――』

怒りに震える声だった。

『どういう了見なのよ!』

さゆりは首をかしげ、不思議そうな顔をした。

『……はあ?』
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