夜更けだった。
一本の電話が鳴った。
『もしもし……美月さんですか?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、かすかに震える声だった。
『さゆりちゃん?どうしたの?』
『今から……お家へ伺ってもいいですか。相談したいことがあって……』
いつもの明るい彼女とは違う。
何かただならぬことが起きたのだと、美月は直感した。
『いいわ。気をつけて来てね』
それから三十分ほどして、さゆりは部屋を訪ねてきた。
顔色は青白く、唇も震えている。
『寒かったでしょう。コーヒーでも飲む?』
『ありがとうございます……』
温かいカップを両手で包み込んだまま、しばらく俯いていた。
やがて、小さく口を開いた。
『私……とんでもないことをしてしまいました』
『どうしたの?』
『恵子さんのお客様の井上さん……覚えてますか?』
『もちろん。あの部長さんでしょう』
『実は……ホテルまで行ってしまったんです』
思わず持っていたカップを落としそうになった。
『えっ?』
『でも……怖くなって』
『怖くなって?』
『井上さんがお風呂に入った隙に、逃げてきました』
美月は言葉を失った。
「何を考えてるの。そんなことしたら大変なことになるじゃない』
さゆりは俯いたまま、小さく呟いた。
『……私から誘ったんです』
『え?』
『恵子さんにずっと無視されて、悔しくて……。
井上さんを奪えば仕返しになるって思ってしまって』
『そんなことで仕返しになるはずないでしょう』
美月は思わず声を強めた。
『傷つくのは、結局あなたよ』
『分かってます……。
でもホテルまで行って急に怖くなって……。
私、最低ですよね』
泣き出しそうなさゆりを見ながら、美月は考えた。
若さゆえの過ち。
そう思いたかった。
『井上さんも立場のある人だし、自分から今日のことを言いふらすような人じゃないと思う。
だから、このことは忘れなさい。
今まで通り仕事をすれば大丈夫よ』
『……そうでしょうか』
『大丈夫」
その言葉で少し安心したように、さゆりは微笑んだ。
しかし――
その夜、美月の楽観は見事に裏切られることになる。
それは嵐の前の、静かな序章に過ぎなかった。
翌日。
出勤すると、さゆりは店長に呼ばれていた。
『今日、なぜ呼ばれたか分かるな』
店長の顔は険しかった。
『朝から井上さんから電話があった。
"さゆりに騙された。店の教育はどうなっている"ってな。
最後には"辞めさせろ"とまで言われたよ」
さゆりは目に涙を浮かべた。
『違うんです……。
私から誘ったなんて誤解です。
ホテルへ行ったのは私も悪いです。
でも、井上さんに何度も誘われて……断りきれなくて…』
店長は大きく息を吐いた。
『どちらにしても軽率だった。
店の信用に関わる。
そんな気がないなら最初からホテルへ行くな』
『……申し訳ありません』
『今回は俺から恵子さんにも説明しておく。
もう二度と同じことはするな』
『はい……』
深く頭を下げたさゆりは、店長の部屋を出た。
そして誰も見ていないと思ったのか、
口元だけで小さく笑った。
ほんの一瞬だけ、
舌をぺろりと出した。
その表情は昨夜、美月の部屋で涙を流していた少女とは別人のようだった。
その頃、店内ではすでに火種が燃え広がっていた。
『聞いてよ!』
恵子さんの怒鳴り声が店中に響く。
『あのさゆり、自分から井上さんをホテルへ誘っておいて、お風呂に入ってる間に逃げたんですって!
井上さんから"二度と店には行かない"って電話があったのよ!』
『ひどい話ね』
みどりさんも顔をしかめた。
『最初から胡散臭いと思ってたのよ。
あんな子、お店に置いておけないわ』
『私が何年かけて築いたお客様だと思ってるの!』
恵子さんはテーブルを叩いた。
その音が店内に響く。
その瞬間だった。
『おはようございます』
何も知らないような笑顔で、さゆりが店へ入ってきた。
店内の空気が凍りつく。
恵子さんは一直線に歩み寄った。
『あんた――』
怒りに震える声だった。
『どういう了見なのよ!』
さゆりは首をかしげ、不思議そうな顔をした。
『……はあ?』