小夜ちゃんの手料理は驚くほど美味しかった。
苦手な魚料理のはずなのに、ぶりの照り焼きも揚げ物も絶品で、思わず箸が進む。
「小料理屋のおかみさんになりたい」
そう語っていた夢も、決して夢物語ではないと思えた。
その時だった。
小夜ちゃんが急に箸を置いた。
「美月ちゃん、私もう苦しくて」
その声は今まで聞いたことがないほど弱々しかった。
「どうしたの?」
「絶対に誰にも言わないでね」
美月は黙って頷いた。
「礼子さんのお客様の伊藤さんいるでしょう」
「ああ、あの人?」
「実は私、伊藤さんと付き合ってるの」
思わず言葉を失った。
伊藤さんといえば礼子さんの太客として有名だった。
お店でも知らない人はいない。
「本当なの?」
「うん」
小夜ちゃんは静かに頷いた。
そして少しずつ話し始めた。
礼子さんには年下の恋人がいたこと。
その事実を伊藤さんへ伝えたこと。
それがきっかけで伊藤さんが礼子さんから離れ、自分のもとへ来るようになったこと。
「昨日もこのソファーで寝ていったのよ」
そう言って小夜ちゃんは少しだけ微笑んだ。
けれど、その笑顔はどこか寂しそうだった。
「だったら良かったじゃない」
私がそう言うと、小夜ちゃんは首を横に振った。
「そうじゃないの」
鍋の湯気が立ち上る。
部屋いっぱいにぶりの匂いが広がる。
「私のやり方って卑怯だったかなって」
小夜ちゃんは小さく呟いた。
「伊藤さんが本当に私を好きなのか分からないの」
その一言で全てが分かった気がした。
伊藤さんを手に入れても不安は消えなかった。
むしろ大きくなっていた。
礼子さんへの未練。
自分への愛情。
そのどちらも確信が持てないのだ。
「私、すぐ捨てられちゃう気がする」
その言葉を聞いた瞬間、不思議と胸が苦しくなった。
魚の匂いのせいなのか。
それとも小夜ちゃんの執着や不安にあてられたのか。
急に気分が悪くなった。
「ごめん小夜ちゃん。私、帰ってもいい?」
「大丈夫?」
「うん、少し外の空気吸えば治ると思う」
タクシーを呼んでもらい部屋を出た。
別れ際、小夜ちゃんはぽつりと言った。
「女って欲深いのかもしれないね」
美月は返事ができなかった。
そうなのかもしれない。
どれだけ愛されても、もっと欲しくなる。
もっと確かめたくなる。
そんな生き物なのかもしれなかった。
それから数日後の深夜だった。
電話が鳴った。
「美月ちゃん!」
受話器の向こうから大きな声が飛び込んできた。
小夜ちゃんだった。
明らかに酔っている。
「伊藤さんが来ないの!」
泣いたり怒ったり、また泣いたり。
同じ話を何度も繰り返した。
夕方六時から料理を作って待っていたこと。
約束したのに連絡もないこと。
何時間も一人で待っていること。
その言葉の一つ一つが痛々しかった。
「小夜ちゃん、今日はもう寝よう」
「嫌よ!」
まるで子供のようだった。
私はしばらく話を聞いた。
けれど終わりが見えなかった。
「ごめんね。また明日聞くから」
そう言って電話を切った。
次の日。
小夜ちゃんは店に来なかった。
無断欠勤だった。
胸騒ぎがした。
電話をかけても繋がらない。
留守番電話だけが虚しく流れる。
昨夜、もう少し話を聞いてあげればよかった。
そんな後悔だけが残った。