交通事故に遭ってから、美月はよく考えるようになった。
人の人生は、明日どうなるか分からない。
あの日、自転車ではなく体に車が直撃していたら——。
そう思うと背筋が寒くなった。
それまでの美月は、毎日が楽しかった。
銀座で働き、仲間と笑い、お客様と過ごす。
それだけで十分幸せだった。
けれど事故を境に、ふと考えるようになった。
このまま歳を重ねていくだけでいいのだろうか。
何か自分の力で残せるものはないのだろうか。
そう思った時、頭に浮かんだのが資格だった。
書店へ通い、資格の本を何冊も立ち読みした。
その中で目に留まったのが『行政書士』だった。
独立もできる。
国家資格でもある。
法律を学んだことのない自分でも挑戦できるらしい。
ただし当時は短大卒以上の学歴が必要だった。
地方の女子校卒の美月には縁のない話に思えた。
だが諦めるのは簡単だった。
それなら先に短大卒業資格を取ればいい。
そう考えた瞬間から行動は早かった。
通信制の短大を探し、資料を取り寄せ、勉強を始めた。
久しぶりに胸が高鳴った。
未来に向かって歩いている気がした。
『美月ちゃん、最近なんだか楽しそうね』
そう声を掛けてきたのは、仲良くなった小夜子さんだった。
金沢出身で、しっとりとした着物姿がよく似合う女性だった。
『そう見える?』
『見える見える』
『私ね、資格を取ろうと思ってるの』
『えー!勉強?』
小夜子さんは本気で驚いた顔をした。
『ただ生きてるだけみたいな人生は嫌なのよ』
『私はお金もらっても勉強なんてしたくないわ』
『でも将来不安じゃない?』
『不安だけどねぇ』
そう言いながら小夜子さんは笑った。
『小夜ちゃんの夢は?』
『小料理屋のおかみさんかな』
『いいじゃない!』
『夢のまた夢だけどね』
『今度ご飯作ってよ』
『いいわよ。実家からぶりが届くから、ぶりづくしにしてあげる』
『本当?絶対行く!』
魚はそれほど得意ではなかったが、人の手料理が恋しかった。
その約束だけで少し嬉しくなった。
そんなある日の深夜だった。
銀座から自宅へ帰るためタクシーに乗った。
運転手の後ろ姿を見た瞬間、妙な親近感を覚えた。
どこかで見たような背中。
独特の話し方。
まさか——。
『あの、川上さんですか?』
運転手はバックミラー越しに不思議そうな顔をした。
『はい、川上ですが』
『私、美月です。覚えてませんか?』
その瞬間、川上さんの目が大きく開いた。
『ああ!風花の美月ちゃんか!』
懐かしい名前だった。
地方のクラブ時代。
こずえさんとの騒動で人生が大きく狂った男性。
突然姿を消して以来、消息も分からなかった人だった。
『川上さん、どうしていたんですか?』
『いやあ、何から話したらいいかな』
川上さんは少し笑った。
だがその笑顔は昔よりずっと疲れて見えた。
家庭も会社も失ったこと。
知人を頼って東京へ出てきたこと。
頼った相手に裏切られたこと。
様々な仕事を転々としたこと。
そして今はタクシー運転手として働いていること。
静かな口調で話してくれた。
『自業自得だよ』
最後にそう言って苦笑した。
『こずえさんは?』
『知らないな』
『実家の近くでお店を持ったって聞いたわ』
『そうか』
川上さんは窓の外を見た。
『あの人は店を持つのが夢だったからな』
その横顔はどこか遠くを見ているようだった。
マンションへ着いた時だった。
『美月ちゃん』
『はい?』
『こうして会えて嬉しかったよ』
『私もです』
『頑張れよ』
『ありがとうございます』
タクシーは静かに走り去っていった。
しばらくその場から動けなかった。
あれほど勢いがあり、誰もが羨む生活をしていた人だった。
その人が今は深夜の東京を走るタクシーの運転席に座っている。
人生は本当に分からない。
今日笑っている人が、明日も笑っている保証などどこにもない。
事故の日から心のどこかで感じていた不安が、川上さんとの再会で形になった気がした。
だから私は勉強しようと思った。
誰かに頼るためではない。
自分の足で立つために。
そんなことを考えていた頃だった。
『美月ちゃん、ちょっと相談があるの』
約束通り小夜子さんの手料理をご馳走になっている時だった。
小夜子さんは、今まで見せたことのない真剣な表情で口を開いた。