【連載小説】第76話 走馬灯の向こう側

【連載小説】第76話 走馬灯の向こう側

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その頃の美月は麻布十番近くのマンションに住んでいた。

都心なのに駅までは遠く、不便な場所だったが、それでも銀座へ通うには十分だった。

あの日は二月の冷たい午後だった。

月に一度のミーティングの日。

買い物を済ませて早めに銀座へ向かう予定だった。

スーパーを出て、自転車で横断歩道へ向かう。

信号は青に変わった。

右側に黒い車が停まっているのは見えていた。

だから安心して前を横切った。

その瞬間だった。

――ドーン。

激しい衝撃が体を突き抜けた。

何が起きたのか理解する前に、

美月の体は宙に浮いていた。

不思議なことに時間が止まったようだった。

いや、

止まったのではなく、極端にゆっくり流れていた。

その一瞬の間に、

幼い頃の景色、

学生時代、

夜の世界に入った日、

銀座へ来た日のことまで、

人生の記憶が映像のように頭の中を駆け巡った。

後になって思えば、

あれが走馬灯だったのかもしれない。

そして浮いている間、

なぜか頭の中で誰かがささやいた。

――顔だけは守らなきゃ。

――頭だけは守らなきゃ。

銀座の女性にとって顔は商売道具だった。

無意識だった。

本能だった。

気づけば美月は必死に顔と頭を庇っていた。

次の瞬間、

地面へ叩きつけられた。

『大丈夫ですか!』

男性の声がした。

スーツ姿の五十代くらいの男性だった。

顔は真っ青で、

今にも倒れそうなほど動揺していた。

美月は声が出なかった。

ただ涙だけが止まらない。

『救急車を呼びます。動かないでください』

人間は本当に大きな衝撃を受けると、

痛みより先に思考が止まるらしい。

美月はただ呆然としていた。

やがて救急車が到着し、

近くの病院へ運ばれた。

検査の結果は打撲のみ。

骨折もなく、

命に別状もなかった。

医師の説明を聞いた時、

ようやく生きている実感が湧いた。

その後、現場検証のため事故現場へ戻り、

警察署へ向かった。

そこで警察官から言われた言葉を今でも覚えている。

『あと数秒違っていたら危なかったですね』

『あと少し位置が違えば車体に巻き込まれていました』

背筋が寒くなった。

生きていたのは偶然だった。

本当に紙一重だったのだ。

事故を起こした男性は小田さんといった。

麻布で美術関係の会社を経営する社長だった。

終始申し訳なさそうに頭を下げ、

美月の体を気遣ってくれた。

悪い人には見えなかった。

むしろ誠実そうな人だった。

だからこそ後で聞いた話に驚いた。

小田さんはその年に入って二度目の事故だった。

しかも前回も信号絡みだったという。

警察官に厳しく叱責され、

免許停止になる可能性まで告げられていた。

美月は少し複雑な気持ちになった。

人は見た目では分からない。

優しそうな人でも過ちを繰り返すことがある。

逆に怖そうな人が情に厚いこともある。

人生は本当に分からない。

事故から数日経っても、

あの日のことを何度も思い出した。

もし少しタイミングが違っていたら。

もし頭を打っていたら。

もし命を落としていたら。

美月は何を残せただろう。

何を成し遂げただろう。

銀座で働くことが楽しかった。

毎日が充実していた。

けれど未来のことなど真剣に考えたことはなかった。

明日も同じ日が来ると思っていた。

でも違った。

人生は突然終わることもある。

その当たり前の事実を、

美月は初めて知った。

あの日、

事故で何かを失ったわけではない。

けれど代わりに一つの気持ちを手に入れた。

これから先、

美月はどんな人生を生きたいのだろう。

その問いが、

静かに胸の奥で動き始めた。

今思えば、

それは未来へ向かう最初の一歩だったのかもしれない。

実はその日のミーティングに美月は全身湿布だらけで顔を出した。

「何しに来たの!」

と雅子ママもみんなも呆れたように笑った。

けれど美月は一度も休んだことがなかった。

休むという選択肢が頭に浮かばなかったのだ。

今思えば、それは責任感だったのか頑固だったのか分からない。

ただ、その頃の美月はそういう人間だった。
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