その頃の美月は麻布十番近くのマンションに住んでいた。
都心なのに駅までは遠く、不便な場所だったが、それでも銀座へ通うには十分だった。
あの日は二月の冷たい午後だった。
月に一度のミーティングの日。
買い物を済ませて早めに銀座へ向かう予定だった。
スーパーを出て、自転車で横断歩道へ向かう。
信号は青に変わった。
右側に黒い車が停まっているのは見えていた。
だから安心して前を横切った。
その瞬間だった。
――ドーン。
激しい衝撃が体を突き抜けた。
何が起きたのか理解する前に、
美月の体は宙に浮いていた。
不思議なことに時間が止まったようだった。
いや、
止まったのではなく、極端にゆっくり流れていた。
その一瞬の間に、
幼い頃の景色、
学生時代、
夜の世界に入った日、
銀座へ来た日のことまで、
人生の記憶が映像のように頭の中を駆け巡った。
後になって思えば、
あれが走馬灯だったのかもしれない。
そして浮いている間、
なぜか頭の中で誰かがささやいた。
――顔だけは守らなきゃ。
――頭だけは守らなきゃ。
銀座の女性にとって顔は商売道具だった。
無意識だった。
本能だった。
気づけば美月は必死に顔と頭を庇っていた。
次の瞬間、
地面へ叩きつけられた。
『大丈夫ですか!』
男性の声がした。
スーツ姿の五十代くらいの男性だった。
顔は真っ青で、
今にも倒れそうなほど動揺していた。
美月は声が出なかった。
ただ涙だけが止まらない。
『救急車を呼びます。動かないでください』
人間は本当に大きな衝撃を受けると、
痛みより先に思考が止まるらしい。
美月はただ呆然としていた。
やがて救急車が到着し、
近くの病院へ運ばれた。
検査の結果は打撲のみ。
骨折もなく、
命に別状もなかった。
医師の説明を聞いた時、
ようやく生きている実感が湧いた。
その後、現場検証のため事故現場へ戻り、
警察署へ向かった。
そこで警察官から言われた言葉を今でも覚えている。
『あと数秒違っていたら危なかったですね』
『あと少し位置が違えば車体に巻き込まれていました』
背筋が寒くなった。
生きていたのは偶然だった。
本当に紙一重だったのだ。
事故を起こした男性は小田さんといった。
麻布で美術関係の会社を経営する社長だった。
終始申し訳なさそうに頭を下げ、
美月の体を気遣ってくれた。
悪い人には見えなかった。
むしろ誠実そうな人だった。
だからこそ後で聞いた話に驚いた。
小田さんはその年に入って二度目の事故だった。
しかも前回も信号絡みだったという。
警察官に厳しく叱責され、
免許停止になる可能性まで告げられていた。
美月は少し複雑な気持ちになった。
人は見た目では分からない。
優しそうな人でも過ちを繰り返すことがある。
逆に怖そうな人が情に厚いこともある。
人生は本当に分からない。
事故から数日経っても、
あの日のことを何度も思い出した。
もし少しタイミングが違っていたら。
もし頭を打っていたら。
もし命を落としていたら。
美月は何を残せただろう。
何を成し遂げただろう。
銀座で働くことが楽しかった。
毎日が充実していた。
けれど未来のことなど真剣に考えたことはなかった。
明日も同じ日が来ると思っていた。
でも違った。
人生は突然終わることもある。
その当たり前の事実を、
美月は初めて知った。
あの日、
事故で何かを失ったわけではない。
けれど代わりに一つの気持ちを手に入れた。
これから先、
美月はどんな人生を生きたいのだろう。
その問いが、
静かに胸の奥で動き始めた。
今思えば、
それは未来へ向かう最初の一歩だったのかもしれない。
実はその日のミーティングに美月は全身湿布だらけで顔を出した。
「何しに来たの!」
と雅子ママもみんなも呆れたように笑った。
けれど美月は一度も休んだことがなかった。
休むという選択肢が頭に浮かばなかったのだ。
今思えば、それは責任感だったのか頑固だったのか分からない。
ただ、その頃の美月はそういう人間だった。