【連載小説】第75話 叶わなかった願い

【連載小説】第75話 叶わなかった願い

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田中さんが帰った後も、

駒ちゃんは泣き続けていた。

美月はどう声を掛けていいのか分からず、
ただ隣に座っていた。

『駒ちゃん……』

『どうしたらいいのかな』

その声は小さく、
今にも消えてしまいそうだった。

美月は田中さんの顔が忘れられなかった。

怒っていた。

けれどそれ以上に、

深く傷ついた顔をしていた。

『駒ちゃん、さっきの話だけど……』

美月は意を決して聞いた。

『私には田中さんが嘘をついているようには見えなかった』

駒ちゃんは黙った。

長い沈黙だった。

やがて観念したように口を開いた。

『ごめんね』

美月は胸騒ぎがした。

『本当のことを言うね』

駒ちゃんは涙を拭った。

『田中さんとは確かにベッドを共にしたわ』

美月は黙って聞いた。

『でもね……』

駒ちゃんの声は震えていた。

『田中さんは私に触れるだけだったの』

美月は言葉を失った。

『それ以上は何もなかったの』

部屋の空気が止まった気がした。

『どうして?』

『私も不思議だった』

駒ちゃんは遠くを見るような目をした。

『でもね、それが田中さんの愛し方なんだと思ったの』

今まで出会った男性たちは違った。

自分の欲望ばかり優先して、
駒ちゃんの気持ちなど考えない人も多かった。

けれど田中さんは違った。

優しかった。

大切にしてくれた。

だから幸せだった。

本当に幸せだったのだ。

『それじゃ……』

美月は思わず立ち上がった。

『それじゃ田中さんの子供じゃないじゃない!』

駒ちゃんは俯いた。

『分かってる』

『分かってるならどうして!』

声が大きくなった。

『田中さんがどれだけ傷ついたと思うの!』

駒ちゃんは泣きながら言った。

『だって……』

その一言に、
すべてが詰まっていた。

『田中さんの子供だったらよかったのに』

美月は何も言えなくなった。

それが本音だった。

嘘をつこうと思った訳じゃない。

騙そうとした訳でもない。

ただ願ってしまったのだ。

愛した人の子供であってほしいと。

その願いが、

取り返しのつかない言葉になってしまった。

『一番言ってはいけない人に言ったのよ、もう田中さんは帰ってこないわ』

美月がそう言うと、

駒ちゃんは声を上げて泣いた。

その涙は後悔だったのか、

失恋だったのか、

それとも別の何かだったのか。

美月には分からなかった。

その後、

田中さんは銀座に姿を見せなくなった。

心配になって連絡すると、

喘息の療養のためアメリカへ渡ることになったという。

けれど私は思った。

田中さんは病気を治しに行ったのではなく、

傷ついた心を休ませに行ったのではないかと。

人生で初めて本気で愛した女性に、

最も残酷な形で疑われてしまったのだから。

そして駒ちゃんも銀座を去った。

選んだのは三味線の道だった。

後に大きな舞台へ立ち、

見事に花を咲かせたと聞いた。

風の便りでは、

幸せそうだった。

だからそれで良かったのだと思う。

けれど美月は今でも時々思う。

もしあの日、

駒ちゃんが願いではなく真実を口にしていたら。

もし田中さんがもう少しだけ冷静でいられたなら。

二人の人生は違う景色になっていたのだろうかと。

答えは誰にも分からない。

ただ、駒ちゃんの子供を見たという人はいなかった。


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