田中さんが帰った後も、
駒ちゃんは泣き続けていた。
美月はどう声を掛けていいのか分からず、
ただ隣に座っていた。
『駒ちゃん……』
『どうしたらいいのかな』
その声は小さく、
今にも消えてしまいそうだった。
美月は田中さんの顔が忘れられなかった。
怒っていた。
けれどそれ以上に、
深く傷ついた顔をしていた。
『駒ちゃん、さっきの話だけど……』
美月は意を決して聞いた。
『私には田中さんが嘘をついているようには見えなかった』
駒ちゃんは黙った。
長い沈黙だった。
やがて観念したように口を開いた。
『ごめんね』
美月は胸騒ぎがした。
『本当のことを言うね』
駒ちゃんは涙を拭った。
『田中さんとは確かにベッドを共にしたわ』
美月は黙って聞いた。
『でもね……』
駒ちゃんの声は震えていた。
『田中さんは私に触れるだけだったの』
美月は言葉を失った。
『それ以上は何もなかったの』
部屋の空気が止まった気がした。
『どうして?』
『私も不思議だった』
駒ちゃんは遠くを見るような目をした。
『でもね、それが田中さんの愛し方なんだと思ったの』
今まで出会った男性たちは違った。
自分の欲望ばかり優先して、
駒ちゃんの気持ちなど考えない人も多かった。
けれど田中さんは違った。
優しかった。
大切にしてくれた。
だから幸せだった。
本当に幸せだったのだ。
『それじゃ……』
美月は思わず立ち上がった。
『それじゃ田中さんの子供じゃないじゃない!』
駒ちゃんは俯いた。
『分かってる』
『分かってるならどうして!』
声が大きくなった。
『田中さんがどれだけ傷ついたと思うの!』
駒ちゃんは泣きながら言った。
『だって……』
その一言に、
すべてが詰まっていた。
『田中さんの子供だったらよかったのに』
美月は何も言えなくなった。
それが本音だった。
嘘をつこうと思った訳じゃない。
騙そうとした訳でもない。
ただ願ってしまったのだ。
愛した人の子供であってほしいと。
その願いが、
取り返しのつかない言葉になってしまった。
『一番言ってはいけない人に言ったのよ、もう田中さんは帰ってこないわ』
美月がそう言うと、
駒ちゃんは声を上げて泣いた。
その涙は後悔だったのか、
失恋だったのか、
それとも別の何かだったのか。
美月には分からなかった。
その後、
田中さんは銀座に姿を見せなくなった。
心配になって連絡すると、
喘息の療養のためアメリカへ渡ることになったという。
けれど私は思った。
田中さんは病気を治しに行ったのではなく、
傷ついた心を休ませに行ったのではないかと。
人生で初めて本気で愛した女性に、
最も残酷な形で疑われてしまったのだから。
そして駒ちゃんも銀座を去った。
選んだのは三味線の道だった。
後に大きな舞台へ立ち、
見事に花を咲かせたと聞いた。
風の便りでは、
幸せそうだった。
だからそれで良かったのだと思う。
けれど美月は今でも時々思う。
もしあの日、
駒ちゃんが願いではなく真実を口にしていたら。
もし田中さんがもう少しだけ冷静でいられたなら。
二人の人生は違う景色になっていたのだろうかと。
答えは誰にも分からない。
ただ、駒ちゃんの子供を見たという人はいなかった。