次の日。
怖がる駒ちゃんを何とか連れ出し、
私たちは産婦人科へ向かった。
結果は予想していた通りだった。
「妊娠三ヶ月に入ったばかりですね。おめでとうございます」
診察室から聞こえてきたその言葉は、
今の駒ちゃんには祝福ではなく宣告にしか聞こえなかった。
待合室へ戻ると、
駒ちゃんは真っ青な顔で私の手を握った。
『やっぱり妊娠してた……どうしよう、美月ちゃん』
今にも泣き出しそうだった。
『駒ちゃん、約束通り田中さんに話さなくちゃ』
『そうだけど……怖いの』
『何が?』
『絶対、生まないでくれって言われる気がするの』
駒ちゃんは震えていた。
私はそこで気付いた。
駒ちゃんは田中さんの気持ちばかり気にしていて、
自分自身の気持ちを一度も口にしていなかった。
『駒ちゃんはどうしたいの?』
『え?』
『生むか生まないかじゃなくて、
駒ちゃん自身はどう思ってるの?』
駒ちゃんはしばらく黙った。
『分からないの』
それが本音だった。
突然の出来事に、
心も頭も追いついていなかった。
生みたいのか。
生みたくないのか。
それすら分からない。
ただ現実だけが目の前にあった。
お腹の中に命がいる。
それだけは確かな事実だった。
数日後。
駒ちゃんは意を決して田中さんへ連絡を入れた。
その日の夜、
駒ちゃんのマンションで話し合うことになった。
ところが――
『美月ちゃんも一緒にいて』
駒ちゃんはそう言った。
『それはまずいよ。
二人で話した方がいいと思う』
『お願い。
一人じゃ言えない』
何度も頼まれ、
私は仕方なく同席することにした。
その時は、
まさかあんなことになるとは思いもしなかった。
午後。
駒ちゃんの部屋へ行った。
銀座の女性らしく華やかな印象とは裏腹に、
部屋の中は洋服や雑誌が積み上がり、
足の踏み場もないほど散らかっていた。
そのギャップに少し驚いた。
外ではいつも完璧に見える人にも、
こんな素顔があるのだと思った。
約束より十分早くチャイムが鳴った。
『よう、待ったかい』
何も知らない田中さんは、
いつもの笑顔で部屋に入ってきた。
そして私を見た瞬間、
顔色が変わった。
『あれ?美月ちゃん、なんでいるの?』
『ちょっと……話があるみたいで』
空気が変わった。
田中さんも何かを察したのだろう。
『俺、今日は帰った方がいいかな』
そう言って踵を返しかけた時だった。
『田中さん待って!』
駒ちゃんが叫んだ。
『私、妊娠したの』
その瞬間、
部屋の空気が凍りついた。
田中さんはしばらく言葉を失った。
『妊娠……?』
そして次の瞬間だった。
『まさか俺の子だなんて言わないよな』
美月は耳を疑った。
駒ちゃんも同じだった。
『今、何て言ったの?』
『だから俺の子じゃないだろって言ったんだ』
『どうしてそんなこと言うの!』
駒ちゃんは立ち上がった。
『私たち付き合ってたじゃない!』
『付き合ってたことと、
妊娠とは別だろ!』
田中さんの声も大きくなった。
『俺たち、そんな関係なんて持ったことないじゃないか!』
今度は美月が固まった。
何を言っているのか理解できなかった。
『そんな関係じゃないって……』
『そのままの意味だよ』
田中さんは真顔だった。
冗談ではなかった。
言い逃れにも見えなかった。
本気で言っていた。
『嘘よ!』
駒ちゃんは泣きながら叫んだ。
『私が嘘をついているって言うの?』
『言いがかりはやめてくれ』
『最低!』
『それはこっちの台詞だ!』
部屋の中は収拾がつかなくなった。
駒ちゃんは近くのクッションを掴み、
田中さんへ投げつけた。
美月は慌てて二人の間に入った。
『もうやめて!』
誰が本当のことを言っているのか。
何が真実なのか。
何も分からなかった。
ただ一つだけ分かったことがある。
二人は同じ話をしているはずなのに、
見ている景色がまるで違うということだった。
『もういい、帰る!』
田中さんは立ち上がった。
そして玄関へ向かう前に美月を見た。
『美月ちゃん。
信じてもらえないかもしれないけど、
俺たちは本当にそんな関係じゃないんだ』
その目は怒りというより、
むしろ困惑しているように見えた。
『今日はもう……』
私はそれ以上何も言えなかった。
バタン――。
ドアが閉まる音が響いた。
田中さんが帰ったあと、
部屋には重たい沈黙だけが残った。
さっきまで愛し合っていたはずの二人が、
まるで敵同士のように傷つけ合った。
私は何が起きたのか理解できなかった。
駒ちゃんは妊娠している。
それは病院ではっきり確認された。
そして駒ちゃんは田中さんの子だと思っている。
なのに田中さんは、
まるで身に覚えがないと言わんばかりだった。
怒りではない。
開き直りでもない。
むしろ田中さんの顔には、
信じられないものを見るような戸惑いがあった。
『どうしてなの……』
駒ちゃんは床に座り込んだまま泣いていた。
私は掛ける言葉を探した。
けれど何も見つからなかった。
慰めることも、
励ますこともできない。
ただ一つだけ分かったことがある。
この問題は、
もう恋愛だけの話ではなくなっている。
一人の命が関わっている。
そしてその命の行く先を決めるには、
まだ知られていない何かがあるような気がしてならなかった。
窓の外では、
都会の灯りが何事もなかったように瞬いていた。