【連載小説】第73話 赤い線
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人は幸せになればなるほど、
失うことを恐れる。
駒ちゃんは今、
まさにそんな日々を過ごしていた。
伊豆の別荘での出来事をきっかけに、
田中さんとの距離は急速に縮まった。
年齢も育った環境も違う。
けれど二人は不思議なほど自然に惹かれ合った。
『私で本当にいいの?』
駒ちゃんは何度もそう聞いた。
そのたびに田中さんは笑った。
『もう俺は駒ちゃんの虜だよ』
その言葉を聞くたび、
駒ちゃんの目は幸せそうに細くなった。
長い人生の中で、
ようやく出会えた人。
そんな気持ちだったのかもしれない。
田中さんもまた同じだった。
仕事に人生を捧げ、
家庭を守り、
世間から見れば成功者だった。
それでも心のどこかに、
埋められない空白があった。
駒ちゃんと出会うまでは。
二人は会うたびに未来を語った。
特別な約束はなくても、
ずっと一緒にいられるような気がしていた。
そんなある夜だった。
深夜、
美月の部屋の電話が鳴った。
受話器の向こうから聞こえた声は、
震えていた。
『もしもし……美月ちゃん?』
『駒ちゃん?どうしたの?』
返事の代わりに、
小さなすすり泣きが聞こえた。
嫌な予感がした。
『何かあったの?』
しばらく沈黙が続いた後、
駒ちゃんは絞り出すように言った。
『私……妊娠しちゃったみたい』
頭の中が真っ白になった。
『本当なの?病院は?』
『まだ行ってないの。でも検査薬を使ったら……』
そこで言葉が途切れた。
『赤い線が出たの』
たった一言だった。
けれどその赤い線は、
二人の未来も、
田中さんの人生も、
すべてを変えてしまうかもしれない一本だった。
私は必死で冷静を装った。
『まず病院へ行こう。話はそれからよ』
そう言ったものの、
心の中は不安でいっぱいだった。
そしてもう一つ、
もっと大きな問題があった。
『相手は田中さんなの?』
その瞬間、
受話器の向こうで駒ちゃんは黙った。
嫌な沈黙だった。
『実はね……』
駒ちゃんは涙声で話し始めた。
田中さんと付き合う前、
別れ話をしていた男性と、
最後に一度だけ会ってしまったこと。
そして、
時期が微妙に重なっていること。
つまり――
誰の子供なのか分からない。
私は思わず息を飲んだ。
駒ちゃんは泣き続けた。
幸せの絶頂にいたはずなのに、
たった一本の赤い線が、
すべてを不安に変えてしまったのだ。
『明日、一緒に病院へ行ってくれる?』
その声は、
今にも消えてしまいそうだった。
『もちろん行くわ』
この妊娠が、
美月の想像もしない結果になるとは
その時、知るはずもなかった。