【連載小説】第61話 銀座デビューの日

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人は人生の中で、
“すべてを懸けてもいい”と思える瞬間に、何度出会えるのだろう。
あの頃の美月は、まさにそんな場所へ向かおうとしていた。

住み慣れた街を離れ、
誰も知らない東京へ。
しかも行き先は――銀座。

華やかさの裏で、
女の意地も、孤独も、欲望も渦巻く街。

けれど美月には、どうしても行かなければならない理由があった。
高坂との曖昧な遠距離恋愛。

先の見えない関係。
待つだけの時間。

もうこれ以上、自分の人生を“途中”のままにしたくなかった。
だから決めた。
もしこの仕事を続けるなら、
日本一の場所で勝負しよう、と。

店長は銀座行きを伝えると、驚くほどあっさり送り出してくれた。
麗子ママは「そう」とだけ言った。
美涙さんだけは、
「美月ちゃんなら絶対大丈夫。いつか自分のお店を持つのよ」
と、自分のことのように喜んでくれた。

川崎先生のことだけが気掛かりだった。
けれど、もう流れは止まらなかった。

部屋探しも拍子抜けするほど簡単に決まり、
美月は台東区の古いコーポへ引っ越した。

壁は薄く、隣の咳払いまで聞こえる。
お世辞にも“理想の東京生活”とは言えなかった。
それでも駅が近い。

そして何より、
“いつでも逃げ帰れるように”
荷物は最小限だった。
自信がなかったのだ。

銀座で本当に通用するのか――。

そして迎えた、銀座初日。

付け下げ以上の着物着用。
淡いピンクの付け下げに、
銀糸の入った灰色の帯。

地方では十分綺麗だったその着物も、
銀座へ向かう電車の中では急に頼りなく見えた。

しかも、一度しか行ったことがない店。
どの通りも同じに見える。
気づけば完全に迷子だった。
時計だけが無情に進み、
待ち合わせの時間を過ぎていく。

どうしよう。。。

焦りで息が浅くなった時、
雅子ママの名刺を思い出した。

『ありがとうございます。“ラビアンローズ”です』
電話口の男性の声に、
思わず涙が出そうになった。

『今日からお世話になる美月ですが……迷子になってしまって……』
『あっ、美月さんですね!雅子ママが心配してます。今どちらですか?』
『えっと……通電ビルって書いてあります』
『分かりました。すぐ迎えに行きます。そこ動かないでくださいね』
ああ、助かった――。

銀座の街角で立ち尽くしながら、美月は深く息を吐いた。
その時だった。
ひとりの女性が目の前を通り過ぎた。

深い紫の辻が花。
絞り染めの美しい着物。
静かなのに圧倒的だった。
“銀座の女”
その一言が似合う後ろ姿。

美月は思わず、自分の着物を見下ろした。
――私、場違いなんじゃないの?
急に怖くなった。

その時。
『美月さんですか?』
黒服の若い男性が声をかけてきた。
『はい!』
『よかった。雅子ママがお待ちです。急ぎましょう』

男性は足早に歩き出した。
また迷子になったら大変。

そう思って慌てて追いかけた、その瞬間――
『きゃっ!』
派手に転んだ。
銀座のど真ん中で。

持っていた着物も帯も道路へ散らばり、
膝と肘を擦りむき、
周囲の視線が一気に集まった。
最悪だった。

黒服の男性も慌てて戻ってきた。
『大丈夫ですか!?』
『だ、大丈夫です……』

そう言った瞬間、涙が溢れた。
情けなかった。
銀座初日。

まだ店にも着いていない。
それなのに、もう心が折れそうだった。

『怪我してませんか?』
『怪我は平気です……それより急がないと』

美月は散らばった着物を抱え直し、
唇を噛んだ。

銀座は、
まだ入口に立っただけなのに、
もう容赦なく
“覚悟”を試してきていた。

そして黒服の男性に案内され、
美月は一本裏通りのビルの前で立ち止まった。

そこには上品な薔薇のロゴと共に
静かに店名が灯っていた。

――『ラビアンローズ』

あの雅子ママが雑誌に掲載されていた銀座の店。

始まりの物語で見上げていた世界が、
今、目の前にあった。

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