【連載小説】第55話 導かれる部屋

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店に戻ったところで、もう以前のような居場所はなかった。

美月がペペルモコへ移っていた間に、店の空気はすっかり変わっていた。

奈々ママ、美涙さん、そして新しく入った由美さん——。

三つの勢力が水面下でぶつかり合い、店の中はいつも張りつめていた。

誰が誰の客についた。
誰が悪口を言った。
誰が自分のお客を横取りした。

笑顔の裏では、そんな話ばかりが飛び交っていた。

その渦の中へ戻ってきた美月は、自分でも驚くほど心が冷めているのを感じていた。

もう以前のように、この店で勝ちたいとは思えなかった。

そんなある夏の日だった。

何気なく手に取った住宅情報誌。

その中の一枚の広告に、美月の目は止まった。

市内では珍しい高級賃貸マンション。
広いリビング。
新築。
敷地内にはコンビニまである。

今住んでいる古いアパートとは、まるで別世界だった。

——ここに住みたい。

そう思った瞬間、自分でも怖くなるくらい気持ちが動いた。

まるで誰かに背中を押されているようだった。

その頃の美月は、何もかもが苦しかった。

高坂は、あの事故をきっかけに東京へ転勤になった。

突然の遠距離恋愛。

会いたい時に会えない。

声を聞くだけで安心していたのに、電話を切るたびに孤独だけが残った。

仕事も、恋も、未来も。

何もかもが曖昧になっていた。

だからこそ——

何かを変えたかったのかもしれない。

『すみません。このマンション、まだ空いてますか?』

訪ねた先は、小さな設計事務所だった。

対応してくれたのは、少しお腹の出た柔らかい雰囲気の男性。

『ああ、このマンションね』

人懐っこく笑いながら名刺を差し出した。

“川崎設計一級建築士事務所”

『先生なんですね』

『先生なんて柄じゃないよ』

川崎は照れくさそうに笑った。

『このマンション、実は私が設計したんだ。だからちょっと思い入れがあってね』

その言葉に、なぜか安心した。

マンションは想像以上だった。

広い駐車場。
明るい廊下。
真新しい木の匂い。

中でも東南の角部屋に入った瞬間、美月は決めていた。

『……ここにします』

『即決だね』

『はい。なんだか、この部屋好きです』

『ここは日当たりもいいし、運も入る部屋だからね』

川崎は冗談っぽく笑った。

けれど、その言葉は妙に胸に残った。

数日後。

美月は新しいマンションへ引っ越した。

家具は少なかったが、不思議と心は少し軽くなった。

窓を開けると風が通る。

夜になると街の灯りが静かに見えた。

この部屋なら、自分をやり直せる気がした。

一方、店では相変わらず女同士の争いが続いていた。

知らない客。
知らないルール。
知らない空気。

気づけば、自分の心だけが置いていかれていた。

そんな時だった。

高坂から電話がきた。

『美月ちゃん、どうしてる?東京、落ち着いたよ』

胸が、静かに沈んだ。

好きなのに。

好きだから苦しい。

会えない距離は、少しずつ人を不安に変えていく。

だからあの時、美月は新しい部屋を求めたのかもしれない。

心を壊さないために。

何かを終わらせないために。

けれど——

その出会いが、

これから自分を銀座へ導く最初の扉になるとは、

まだ知るはずもなかった。

そして、

その川崎先生こそ、

雅子の弟だったのである。
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