幸ちゃんは、その後すぐに離婚が成立した。
まるで過去を切り離すような、あっけない幕引きだった。
そして今は——
西田さんと再婚し、新しい生活を始めている。
子どもを抱えたままの再出発。
それでも彼女は、ようやく“居場所”を手に入れたように見えた。
そんなある日。
またしても、麗子ママから呼び出しがあった。
事務所に入った瞬間、空気が違うと分かった。
『来てくれてありがとう』
その声は、いつもより硬かった。
『ちょっと聞きたいことがあるの』
『はい』
『ここ一ヶ月、お店の様子どうだった?』
曖昧な問いに、少し戸惑う。
『えっと……雨が多かったので静かな日が多くて——』
『違うの』
ぴしゃりと遮られた。
『感想はいらないの。事実だけ教えて』
その言葉に、思わず背筋が伸びる。
私は、思い出しながら答えた。
客数。
流れ。
おおよその来店状況。
けれど話しながら、自分でも分かっていた。
——こんな説明じゃ、足りない。
『やっぱり要領を得ないわね』
ため息混じりに、ママは言った。
そして少し間を置いてから、こう続けた。
『お願いがあるの』
その一言で、空気がさらに重くなる。
『来月一ヶ月でいいわ。
お客様の名前、人数、ボトルの有無を記録してほしいの』
『えっ、はい……分かりました』
反射的に答えた、その直後だった。
『ただし』
一瞬の沈黙。
『正木店長には、内緒で』
その言葉が、胸の奥に落ちた。
——どういうこと?
頭では理解している。
でも、感情がついていかない。
正木店長は、いい人だ。
優しくて、穏やかで、
この店で唯一、安心できる存在だった。
その人を——疑えというの?
『できる?』
ママの視線は、逃げ場を与えなかった。
『……はい』
気づけば、そう答えていた。
それからの一ヶ月。
私は毎日、店が終わるたびに記録をつけた。
客の名前。
人数。
ボトルの数。
何度も、店長に話しそうになった。
でも、そのたびにママの言葉がよぎる。
——内緒で。
気づけば私は、
この店の中で、ひとりだけ別の役割を持っていた。
そして一ヶ月後。
再び事務所へ呼ばれた。
『お疲れさま』
ママは淡々と言った。
『まだ確定じゃないけど、
正木店長について、あまり良くない話を聞いたの』
やっぱり、そういうことだった。
『でも……店長はそんな人じゃないと思います』
思わず口にしていた。
『帰っていいわ』
その言葉は、会話を終わらせるものだった。
それ以上は、何も聞けなかった。
事務所を出たあと、
胸の奥に、妙な違和感が残った。
信じたい気持ちと、
見えない何かが崩れ始めている感覚。
お店は、本当に安全なのだろうか。
そう思ったのは、
この時が初めてだった。