【連載小説】第52話 壊れる音

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その夜だった。

2階から、ただならぬ声が響いてきた。

『やめて!その手を離して!』

『ふざけるな!どれだけ探したと思ってるんだ!』

空気が一瞬で変わった。

——来た。

幸ちゃんの、あの男だ。

心臓が嫌な音を立てる。

電話をかけようとする指が震えて、うまく動かない。

それでもなんとか店長に連絡を入れた。

『今すぐ行く!危なかったら警察を呼べ!』

受話器を置いた瞬間、
上から鈍い音が響いた。

もう、待てなかった。

ドアを開けた瞬間、息を呑んだ。

幸ちゃんの顔が、変わっていた。

腫れ上がり、涙と恐怖で歪んでいる。

『その手を離しなさい!』

声が、自分でも驚くほど強かった。

男はゆっくりこちらを見た。

『……誰だ』

低く、濁った声だった。

『この店の者です』

『これは夫婦の問題だ。引っ込んでろ』

その一言で、空気が凍る。

——違う。

これはもう、夫婦の問題じゃない。

『出て行くのは、あなたの方です』

とっさに嘘をついた。

『警察、呼びましたから』

男は一瞬だけ笑った。

『いいじゃねえか。呼んでみろよ』

その時、店長が駆け込んできた。

『子どもは!?』

その一言で我に返る。

部屋の隅に、小さく丸まった影。

震えている。

私は何も考えず、その子を抱き上げた。

『大丈夫、大丈夫だから』

そう言いながら、
自分に言い聞かせていた。

1階に降りたあとも、
上では言葉がぶつかり続けていた。

やがて——

声が変わった。

怒鳴り声ではなく、
崩れるような声に。

『……俺は、全部分かってたんだ』

男が、泣いていた。

『会社に切られて……酒に逃げて……全部、自分のせいなのに』

『あなた……』

『お前にも当たって……最低だった』

言い訳じゃなかった。

遅すぎる、本音だった。

『もうやめて』

幸ちゃんの声は、静かだった。

『一度割れたお皿は、元に戻らないの』

その言葉は、まっすぐだった。

逃げでも、怒りでもない。

決めた人間の声だった。

『……そうか』

男は、少しだけ笑った。

『俺にできるのは、別れてやることか』

その背中は、さっきまでの暴力とは別人のようだった。

小さくなって、
ただの一人の男になっていた。

それから何度か話し合いを重ね、
男は北海道へ戻っていった。

幸ちゃんは、ようやく“自由”を手に入れた。

けれど——

不思議と、安心はしなかった。

何かが終わったはずなのに、
何かが始まる気がしていた。

予兆は、いつも静かだ。

この時、まだ私たちは知らなかった。

『ペペルモコ』の終わりが、
すぐそこまで来ていたことを。
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