その夜だった。
2階から、ただならぬ声が響いてきた。
『やめて!その手を離して!』
『ふざけるな!どれだけ探したと思ってるんだ!』
空気が一瞬で変わった。
——来た。
幸ちゃんの、あの男だ。
心臓が嫌な音を立てる。
電話をかけようとする指が震えて、うまく動かない。
それでもなんとか店長に連絡を入れた。
『今すぐ行く!危なかったら警察を呼べ!』
受話器を置いた瞬間、
上から鈍い音が響いた。
もう、待てなかった。
ドアを開けた瞬間、息を呑んだ。
幸ちゃんの顔が、変わっていた。
腫れ上がり、涙と恐怖で歪んでいる。
『その手を離しなさい!』
声が、自分でも驚くほど強かった。
男はゆっくりこちらを見た。
『……誰だ』
低く、濁った声だった。
『この店の者です』
『これは夫婦の問題だ。引っ込んでろ』
その一言で、空気が凍る。
——違う。
これはもう、夫婦の問題じゃない。
『出て行くのは、あなたの方です』
とっさに嘘をついた。
『警察、呼びましたから』
男は一瞬だけ笑った。
『いいじゃねえか。呼んでみろよ』
その時、店長が駆け込んできた。
『子どもは!?』
その一言で我に返る。
部屋の隅に、小さく丸まった影。
震えている。
私は何も考えず、その子を抱き上げた。
『大丈夫、大丈夫だから』
そう言いながら、
自分に言い聞かせていた。
1階に降りたあとも、
上では言葉がぶつかり続けていた。
やがて——
声が変わった。
怒鳴り声ではなく、
崩れるような声に。
『……俺は、全部分かってたんだ』
男が、泣いていた。
『会社に切られて……酒に逃げて……全部、自分のせいなのに』
『あなた……』
『お前にも当たって……最低だった』
言い訳じゃなかった。
遅すぎる、本音だった。
『もうやめて』
幸ちゃんの声は、静かだった。
『一度割れたお皿は、元に戻らないの』
その言葉は、まっすぐだった。
逃げでも、怒りでもない。
決めた人間の声だった。
『……そうか』
男は、少しだけ笑った。
『俺にできるのは、別れてやることか』
その背中は、さっきまでの暴力とは別人のようだった。
小さくなって、
ただの一人の男になっていた。
それから何度か話し合いを重ね、
男は北海道へ戻っていった。
幸ちゃんは、ようやく“自由”を手に入れた。
けれど——
不思議と、安心はしなかった。
何かが終わったはずなのに、
何かが始まる気がしていた。
予兆は、いつも静かだ。
この時、まだ私たちは知らなかった。
『ペペルモコ』の終わりが、
すぐそこまで来ていたことを。