ー 部屋に布置された、あなた自身の存在・あり方ー
Rayです。
先日、部屋を少し片づけたことを書きました。
大きな模様替えをしたわけではありません。
机の上に置いたままだったものを戻す。
床に落ちていた紙を捨てる。
窓を開けて、空気を入れ替える。
本当に、それくらいの小さなことです。
けれど、そのあとで少しだけ、部屋の見え方が変わった気がしました。
部屋というのは、ただ眠る場所でも、荷物を置く場所でもないのかもしれません。
そこには、日々の自分がいます。
疲れて帰ってきた自分。
誰にも見せない顔に戻る自分。
考えすぎて、少し黙っている自分。
明日こそはと思いながら、なかなか動けない自分。
そうした自分の気配が、部屋のあちこちに、静かに置かれている。
つまり部屋には、今の自分の存在のあり方が、知らず知らずのうちに、布置、されているのだと思います。
以前、私の師から、シャーマニズム的な世界の見方について教えられたことがあります。
正直に言うと、そのとき私は少し驚きました。
なぜ、そんなことまで知っているのだろう。
どこで、そういう感覚を学んできたのだろう。
そんなふうに思ったのを覚えています。
師が話してくれたことの中で、とくに印象に残っているのは、
場・場所、には力がある、という感覚でした。
それは、特別な聖地だけの話ではありません。
人が何度もそこに立ち、眠り、祈り、悩み、また立ち上がる場所には、その人の存在の痕跡のようなものが宿っていく。
そんな風なことを学び、最初はピンと来てはいなかったものの、
ただ寝るだけだと思っていた自分の部屋、という場所をだんだんと
聖なる場所にしていく、、
そのようのしたほうが、いいんだろうな、、
とそう、思うようになっていきました。
毎日そこに帰ってくる場所。
何かを考える場所。
心がほどける場所。
あるいは、心が少し散らかってしまう場所。
だから、部屋を片づけるということは、単に効率をよくするためだけの行為ではないのだと思います。
もちろん、子どものころは違いました。
「部屋を片づけなさい」と親に言われる。
学校では、整理整頓は決められた役割として教えられる。
大人になってからも、片づけはタイパや生産性のために語られることが多い。
早く動くため。
無駄を減らすため。
仕事ができる人になるため。
それも、たしかに大切なことです。
でも今の私は、もう少し違う感覚で部屋を整えるようになりました。
もっと頑張るためではなく、
もっと効率よく動くためでもなく、
自分が存在している場所を、静かに大切にするため。
部屋を整えることは、そこにいる自分を責めることではありません。
散らかった部屋を見て、
「自分はだめだ」と思うためのものでもありません。
むしろ、そこに置かれたものをひとつずつ見ながら、
「ここまで、よく過ごしてきたね」
と、自分の生活の跡を見つめ直すことに近いのだと思います。
使わなくなったものを手放す。
必要なものを、必要な場所へ戻す。
空気を入れ替える。
少しだけ余白をつくる。
それは、場所をきれいにするというより、
自分が立っている小さな大地を、もう一度調えることなのかもしれません。
「ととのえる」という言葉には、いくつかの表情があります。
整える。
これは、乱れたものを、きちんとした形にすること。
そして、調える。
これは、必要なものをそろえ、調和させ、何かを迎えられる状態にすること。
古い神事のことを思うと、この「調える」という感覚は、とても大切だったのではないかと思います。
神聖なものを迎えるために、場を清める。
供えものを用意する。
心身を落ち着かせる。
目には見えないものに対して、こちら側の場を調えておく。
そう考えると、部屋を片づけることも、少しだけ神事に似ています。
大げさなことではありません。
机の上を拭く。
床のものを拾う。
水を替える。
花を一輪置く。
窓を開ける。
それだけで、部屋の空気は少し変わります。
そして、部屋の空気が変わると、そこにいる自分の呼吸も、少し変わります。
私たちは、何かを「うやまう」という感覚を、少し忘れて久しいのかもしれません。
それは、神様を信じるかどうか。
宗教的であるかどうか。
そういう話の前に、もっと小さなところで始められるもののように思います。
自分が毎日過ごしている場所を、少しだけ大切にすること。
自分が座る椅子を、少しだけ丁寧に扱うこと。
自分が眠る場所に、少しだけやさしい空気を通すこと。
それは、誰かに見せるための立派な行いではありません。
けれど、なくなって久しいと思っていた「うやまう」という感覚は、案外、すぐ目の前から始められるのだと思います。
部屋を整えること。
そして、部屋を調えること。
それは、完璧な暮らしを目指すことではなく、
今ここにいる自分と、その場所に、そっと礼をすることなのかもしれません。