50代の知人たちが、こぞってAIをビジネスの相棒にし始めた。頼もしいことだと思う。イラストを作り、曲まで作る人もいる。一生懸命やっている。やらないよりは、確実にいい。
けれど、素直な感想としては...。イラストで生成された顔は、みんな同じだ。輪郭も、目の描き方も、肌の質感も。曲を聴かせてもらうと、詞がどこかで聞いたような言葉の並びになっている。悪いのではない。ただ、既視感がある。
私だって、AIをフル活用している。なくてはならない存在だ。しかし、ふと思うことがある。
「う〜ん、これどっかで見たようなデザインだな」。
これは個人の技術やセンスの問題ではない。もっと構造的な話だ。そして、私が本当に気になっているのはここから先である。
本来、同質化には「時間」がかかるはずだった
ファッションでも、Webデザインでも、EC サイトの構成でも、様式が均質化していく現象そのものは、実は目新しいものではない。20世紀に入った時点で、新しいデザインというものは、ほぼ出尽くしている。ゼロから何かを生み出す時代は、とうに終わっているのだ。だから現代のデザインとは、自身の経験や知見、感じてきたものをフル稼働させて、それを自分流に編集またはアレンジすることに他ならない。私はずっとそう考えてきた。
そのうえで、もうひとつ付け加えたいことがある。勝ちパターンの模倣は、日本の産業がずっと繰り返してきたお家芸だ。誰かが成功すると、似たものが量産される。ファッションはもちろん、YouTubeでも、インスタでも、まずは真似ろ、というのが定石だった。
ただ、ここではっきりさせておきたいことがある。特にSNSに関しては昔からと言っても、それはほんの2、3年前の話だ。そしてその頃は、正真正銘、人が観察と分析をやっていた。登録者数1万人を超えるようなYouTuberは、伸びている動画を来る日も来る日も見続け、サムネイルの作り方、冒頭何秒の構成、間の取り方まで、自分の目と手で分析し、真似ていた。地味で、泥臭くて、時間のかかる作業だ。血のにじむような、と言ってもいい。売れている人ほど、実はこの部分に膨大な時間を使っている。
その勝ちパターンの分析を、今はAIが一瞬でやってしまう。だから、AIを使えば誰でも同じ土俵に立てる、という空気がある。けれど、そこで生まれてくるものは、往々にして薄っぺらい。人が血のにじむ思いで積み上げてきた分析と、AIが統計的に導き出したそれらしい型とでは、同じ模倣でも中身がまったく違う。AIだから簡単にできる、と思っている人ほど、実はそのことに気づいていない。
これまでの同質化には、必ず時間というプロセスがあった。試行錯誤があり、淘汰があり、模倣があり、定着があった。そこには人間の判断が、何層にもわたって介在していた。
AIによる同質化には、そのプロセスが丸ごと抜け落ちている。試行錯誤の時間を経ずに、最初から、誰にでも好かれそうな、みんなと同じ顔が生成されてしまう。これは、これまで人類が経験したことのない速度の均質化だ。20年かけて緩やかに起きていたはずのことが、プロンプトを打った次の瞬間に起きている。
しかも、結局のところ、そのプロンプトさえ自分で考えたものではなく、どこかで見たテンプレートだったりする。真似ているという自覚すらないまま、テンプレのプロンプトで、テンプレの絵を出す。二重に、他人任せになっているのだ。
なぜ、作っている本人は気づかないのか
ここで、心理学的な視点を挟みたい。
一つは、単純接触効果(mere exposure effect)である。人は、繰り返し目にするものに対して、自然と好意や安心感を抱くようにできている。AIが生成する「量産型の顔」「量産型の詞」も、SNSで繰り返し流れてくるうちに、脳がこれを標準だと学習していく。違和感を覚えるための基準そのものが、目に慣れることで書き換えられてしまうのだ。
もう一つは、生成AIという技術の構造的な性質だ。AIは、膨大なデータの、平均的に確からしいものを出力するようにできている。統計的に無難な答えを出す、と言い換えてもいい。これは技術としては優秀さの証明だが、裏を返せば平均への回帰を宿命として抱えているということでもある。個性的な顔よりも、平均顔に近いものの方が生成されやすい。詞も、聞き慣れた言葉の並びの方が選ばれやすい。作り手が意図せずとも、構造的に均質な方向へ引っ張られる。
そして最も見落とされがちなのが、視点のズレだ。作っている本人は、自分の一枚、自分の一曲としてそれを見ている。だから、自分らしく作った、という実感がある。けれど、外から見ている人間は、時系列で、大量に、他の誰かの作品と並べて見ている。個の視点では気づけないパターンが、集合の視点になった瞬間に、はっきりと見えてしまう。これは、作り手の感度が低いという話ではない。構造的に、本人には見えない位置に均質化が起きている。
インスタグラムを時系列で眺めて、気づいたこと
これは私自身の観察だが、インスタグラムの投稿を時系列で追っていると、AI生成らしき画像の見た目が、内容が、驚くほど似通っていく瞬間がある。最初は「あ、AIっぽいな」と気づく。けれど、それを何十枚も続けて見ていると、だんだん目が慣れてくる。慣れてしまうと、それが普通になる。違和感が消えるのだ。
これが一番怖いところだと思っている。同質化した見た目そのものよりも、それを当たり前だと感じるようになる私たち自身の感覚の変化の方が、実は本質的な問題ではないか。
時短の裏側にある罠に、多くの人はまだ気づいていない。効率化できた、便利になった、という実感の方が先に立つのは当然だ。けれど、個々の作り手が便利だからと選んだ選択が、業界全体の見た目や表現の幅を、静かに、しかし急速に狭めていく。
多様性というのは、時間をかけた試行錯誤の副産物でもあった。その背景には、文化や歴史があった。AIがそのプロセスを飛び越えた今、私たちは多様に見えて、実は均質という状態に、思っている以上に早く到達しつつあるのかもしれない。
もっとも、これは怠慢ということでもないと思っている。むしろ構造的な誘導だ。AIを使う動機自体が時間をかけずに結果を出すことである以上、そこに立ち止まって吟味するという行為を挟むことは、そもそもの目的と矛盾してしまう。加えて、SNSのアルゴリズムはすでに見慣れた型を評価しやすい設計になっている。平均から外れることは、短期的には損に見える。深く考えないことの方が、今のシステムの中ではむしろ合理的な選択に見えてしまうのだ。
これは、自己決定理論で言うところの「外発的動機(速さ、量、承認)」が、「内発的動機(自分の表現をやり切りたいという欲求)」を静かに侵食している状態、とも言えるかもしれない。誰も悪くない。ただ、システム全体が、立ち止まらない方向に、皆をそっと押している。
だからこそ、「目利き」が問われる
同質化が進むということは、裏を返せば、そこから外れたものの価値が相対的に上がるということでもある。一次情報、固有の経験、削れない語り口。AIには生成できない部分こそが、これからの差別化の核になっていく。
では、平均化を避けるにはどうすればいいのか。答えは、実はシンプルだ。誰も見ていない角度からの一次情報を、入力にあらかじめ混ぜておくこと。AIの一次出力を答えにせず、あくまで素材として、人間の判断を、最後に必ず通すこと。そして何より、平均ではない何かの手触りを、自分の内側に先に持っておくこと。この三つが揃わなければ、目利きは働かない。
見慣れたものを普通だと感じてしまう自分の感覚を、時々疑ってみること。それこそが、これからの時代の目利きだと思う。
これはデザインや文章だけの話ではない。契約書のような、間違えれば実害が出るものですら、AIの一発目の下書きをそのまま使ってしまう人がいる。
AIの出力は、答えではなく素材である。
ごく基本的なリテラシーが、一番浸透していないのは、実はこういう分かりやすいリスクの場面なのかもしれない。