ここ数年、ファッション業界にもサステナブルの波が押し寄せている。パタゴニアは1972年から環境主義を掲げ、2023年時点で全製品の98%にリサイクル素材を導入し、2025年までに100%を目指すと公表している。2018年にはファッション企業43社が「ファッション業界気候行動憲章」に署名し、2030年までに温室効果ガス排出量を30%削減、2050年までに実質ゼロを達成するという目標を掲げた。ZARAやH&M、そして日本のユニクロも、環境負荷の低い素材の使用を増やし、リユースやリサイクルに力を入れると発表している。
では、私自身はどうか。かつては、着ない服がクローゼットに溢れ、それをゴミに出すのが忍びなくて、ボランティア団体に託し、第三国の人たちに再利用してもらう...ということを繰り返していた。振り返ると、なぜあんなに大量の服を抱えていたのか。家族中を集めると、さらにその量はもう膨大だった。本当に、呆れるほどだ。今はだいぶ減ったけれど、「私も!」と思い当たる人は、きっと少なくないはずだ。
十分すぎるほど持っているのに、なぜまた買ってしまうのか。心理学ではこれを「快楽適応(hedonic adaptation)」で説明することができる。新しい服を手に入れた瞬間の高揚感は長続きせず、すぐに当たり前になってしまう。すると人は、その一瞬の高揚感を求めて、また次の一着に手を伸ばす。買い物という行為そのものが、モノを増やすためというより、一瞬の快を繰り返し補充するための行動になっているのだ。つまり私たちが本当に欲しかったのは、服そのものではなく、服を買った瞬間の満たされた感覚だったのかもしれない。
この「一瞬の快を求めて買い続ける」心理は、私たち個人だけの問題ではない。むしろ、それを前提に成り立っている消費構造そのものの問題だ。次から次へと新しいトレンドを供給し、飽きさせ、また買わせる。そのサイクルの上に、ファッション業界という産業全体が築かれているのだ。もちろん、それはファッションだけでなく、私たちを囲むすべてのものがそうなのだが。
そして、その大量生産・大量消費のサイクルの先に、目を背けられない現実がある。
ファッション業界においては、2013年、バングラデシュのラナプラザ崩落事故で1,100人以上の縫製労働者が命を落とした。あの事故から今年で13年が経つが、業界がどれほど変わったのか、今も問われ続けている。コットン栽培には大量の水資源が使われるだけでなく、世界の農薬使用量のうち大きな割合がコットン畑で消費されているとも言われ、土壌汚染や栽培農家の健康被害も指摘されている。児童労働の問題も根深く残る。安い服の裏側には、必ず誰かの犠牲がある。それがサステナブルという概念が生まれた原点だ。
日本はこの取り組みにおいて、世界から大きく遅れをとっている
EUでは製品の透明性を義務化するデジタル製品パスポートの導入が進み、フランスでは売れ残り品の廃棄が法律で禁じられている。一方で、日本で供給される衣類の約65%は今も廃棄されているのが現状だ。日本の衣類1着あたりのCO2排出量は約25.5kgと試算され、国連貿易開発会議はファッション産業全体の温室効果ガス排出量が国際航空業界と海運業界を合わせた量を上回ると指摘している。
なぜ、日本はここまで遅れているのか。理由の一つは、日本のアパレル業界の構造そのものにある。多くのブランドは海外の縫製工場に生産を委託し、その先で何が起きているかを、ブランド自身も、消費者も、ほとんど知らない。サプライチェーンは長く複雑に分業化され、「誰が、どこで、どんな条件で作っているのか」が見えない仕組みになっている。安くて可愛いを実現するための価格競争は、結局どこかの誰かの労働条件や、環境負荷を圧縮することでしか成立しない。
その昔、ある媒体に「ファッション業界におけるサステナブル」という企画を提案したことがあった。しかし、取材を進めれば進めるほど、構造上の闇にぶつかった。特にリサイクルの現場は、想像していた以上に複雑だった。回収された衣類が、その後どこへ、誰の手を経て、どう流れていくのか...を追うのには一筋縄ではいかない利権構造があり、迂闊に踏み込めば取材自体が難しくなる領域だということを、当時、身をもって知ることになった。結局、その企画は当たり障りのない範囲でまとめざるを得なかった。サステナブルという言葉の美しさの裏には、簡単には語れない現実がある。それを、あの時ほど痛感したことはない。
端的に言えば、そこが、日本がこの分野で遅れている理由の一つなのだ。
そしてもう一つ。日本の消費者自身が、安い服の裏側に関心を向けてこなかったという現実もある。ブランド名や流行よりも、とにかく安くて、そこそこ良い、を選ぶ習慣が根付いてしまった。1,000円のTシャツを手に取るとき、その価格がなぜ実現できているのかを考える人は、まだ多くない。
以前、電車の中で聞いた女子学生ふたりの会話が忘れられない。
「白のTシャツってすぐ汚れるからさ、ワンシーズンで捨てられるくらいでいいよね〜」「そうそう、高いの買っても意味ないし」。
ただ、それは彼女たちが浅はかなのではない。単に、知らないだけなのだ。いや、正確に言えば、知らされていないだけなのだ。その一枚がどこで、誰の手によって、どんな環境負荷をかけて作られているのか。学校でも、広告でも、SNSでも、そうした情報に触れる機会はほとんどない。長く着ることよりも気軽に捨てられることに価値が置かれる感覚は、彼女たちが選び取ったものではなく、知らされないまま、静かに刷り込まれてきたものなのだと思う。
安い服の裏側にあるもの
それは、見えない誰かの労働であり、見えない場所で流れる排水であり、見えない未来への負債だ。「サステナブル」という言葉が、企業のマーケティング用語として消費されるだけで終わるのか、それとも本当に構造を変える力になるのか...。
正直に言えば、私はもう「大量生産・大量消費の構造そのものを変えよう」という流れは難しいと思っている。企業も、市場も、消費者の欲望も、そう簡単には変わらない。何十年もこの業界を見てきて、それがどれほど強固な仕組みであるかを、嫌というほど知っている。
だからこそ、生きてくるのが「目利き」の力だと思う。構造を変えられないなら、その構造の中で、自分の目で選び取る力を磨くしかない。安さの裏側にあるものを想像できるか。なぜこれを選ぶのか?を、自分の言葉で説明できるか。流されて買った一着ではなく、自分の物語に共鳴する一着を選べるか。
サステナブルという言葉が、本当に暮らしを変える視点になるかは、結局のところ、私たち一人ひとりの選ぶ力にかかっている。大量の服に埋もれていた自分を思い出しながら思う。