「教養の基礎とは何か」横浜市立大学国際教養学部前期2025年

「教養の基礎とは何か」横浜市立大学国際教養学部前期2025年

記事
学び

(1)問題



① この本では、伝統に根差した判断力や、政治に参加する市民としての能力や、専門的した知のあいだをつなぐ思考といった形で、さまざまな「教養」の望ましいありようをとりあげてきた。しかし、そうした「教養」が教養の足りない者に対してみずからを誇り、さらには自分の「教養」を見せつけることで。彼らを自分の後に従って精進するよう導き、支配しようとする態度に行き着かないかどうか。「教養」を何かの知識を、まったくの無から十分な量にむけて蓄積してゆく、量の拡大と見なしているかぎり、競争と文配の思考へと誘う罠は、どこかで存続し続ける。そして、「教養」の増進に努める者たちの精神をむしばんでゆくことにもなるだろう。

② かつて、大正期の和辻哲郎、阿部次郎や、1930年代の河合栄治郎·三木清といった人々は。「教養」を積んでいけば人格も向上し、みずからの物欲や支配欲を上手に手なずけることができると説いた。その確信は、大正時代から戦後に至るまで、しだいに先細りになりながらも、読書する若者たちによっても共有されていた。

③ だが、1970年代以後、大学への進学率が上がり、ことさらに「教養」のある存在として、大学生である自分を、大衆から区別することが不要で不可能になってくると、「教養」のかけ声は、もはや説得力を失ってしまった。むしろ、「教養」をふりかざす者については、「教養」なき者に対する蔑視が、敏感にかぎとられ、敬遠されるようにもなる。

④ 「教養」を積めばいったいどうなるというのか。もちろん、「教養」を積んでゆく過程自体が目的だと答える手もあるだろう。だが、間に合わせの答すらまっとうに語らず、答えることを放棄したまま、「教養」の必要を説く大人や先輩が、どうもうさん臭い。大学生の「教養」ばなれには、そうした要因もあったのではないか。

⑤ しかし、(A)その現状にため息をつきながら、もはや「教養」など不要だと放り出すわけにはいかない。人間が身につける知が、読み書き・計算をざっと身につけただけで、あとはマニュアル化された実用知識か、あるいは高度に専門化された学問だけになってしまえば、どうなるか。学問でもジャーナリズムでも、専門の境界をこえるような、豊かで斬新な発想は、まず生まれなくなる。さらに、異なる価値観や世界観を抱いた人間どうしの対話が、日常生活の次元でも、ずっと困難になってゆくだろう。人と人とが生き生きとした交流を保ち、社会を円滑に動かしてゆくためには。この本で色々ととりあげてきたような「教養」が、やはり必要なのである。

⑥ 何らかの「教養」を追及しながら、しかも競争と支配の思考へと陥ってしまうのを避けるには、とうすればいいのか。政治社会学者の栗原彬が、ジョージ・オーウェルのエッセイ「絞首刑」(1931年)を引きながら、語っているところが興味ぶかい。これは、オ一ウェルが28歳の年に雑誌に寄稿した作品であり、その前に、ビルマに渡ってインド帝国警察に警官として勤めていたときの経験をもとにしている。

⑦ ある朝、雨期で湿った空気のなか、オーウェルは刑務所の庭で、一人のインド人の男が絞首刑にかけられるのに立ちあった。男は手錠をはめられ、両側から衛兵に腕をとられながら、絞首台にむかって歩いてゆく。だが、水たまりに近づくと、男はふと歩みをそらし、それを避けた。これを見た瞬間、オーウュルの心に小さな衝撃が走る。
⑧ 奇妙なことだが、私はその時まで、ひとりの健康で正気な人間を殺してしまうことが何を意味するか、何も分かっていなかった。死刑囚が水たまりを避けて横によけるのを見た時、私はその盛りの時に命を縮めることの秘密、その言い表せない誤りを知った。この男は死んでいない。われわれが生きているとちょうど同じに、彼も生きている。彼の身体のあるゆる器官が動いている。――腸は消化を続けている、皮膚は代謝を続け、つめは伸び、組織は作られている――すべてはいつもと変わらず動いていたが、それは全くむだなことだった。彼のつめは、絞首台に立った時にも伸び続けるだろう。そして命にあと十分の一秒でおさらばという、宙を落ちている時にも。彼の目は黄色い砂利や灰色の壁を見る。脳はまだ記憶し、予知し、判断する。――水たまりのことまで判断する。彼とわれわれは、共に歩き、同じ世界を、見、聞き、感じ、分かる人間の一隊なのだ。そして二分後、突然とぎれて、われわれのひとりとは、いってしまう――ひとつの心が失われ、ひとつの世界が失われる。(塩沢由典訳)
⑨ (B)栗原は、水たまりを避けたインド人死刑囚のしぐさと、それを受けとめるオーウェルの態度の双方に、大きな「教養」を見る。それはもちろん、「何らかの情報の蓄積」ではありえない。

⑩ 死刑囚の側は、すぐに命を絶たれることはわかっているのに、足が汚れるのを無意識にさけ、みずからの「生への愛おしみ」を最後まで保ちつづけた。これを見たオーウェルの側も、自己と他者、植民地支配者と現地住民との間にある壁をのりこえ、目の前にいる死刑囚が自分と同じ人間であることを、感覚のすべてをもって了解し、「帝国主義の悪を一気に知ってしまう」。このように。「限界状況で、教養は、生の証しとか、人間の尊厳としか言いようのないものとして、そっと現れる」。 そうふまえたあとで、「私に教養ということばで、身体が他の身体と交通しながら、自分と世界と知り、またそれを変えていく生の軌跡を思い描く」、と栗原は話っている。

⑪ 単なる知識や情報の集積と、「教養」とを区別するものは何か。それをかつての「教養主義」のように、高貴な道徳性と規定して済ませる道をとらないならば、何が考えられるのか。このことをめぐって、本書ではさまざまな角度から検討してみたが、究極の一点とも言うべきものを、オーウェルと栗原は示している。

⑫ 人が、世界をとらえ、しかもその世界が独自の原則にのっとって動いていることを、深く認めながら、それを理解し、世界とのおりあいをつけていくこと。他者が自分とはまったく異なる志向をもった人間であることを了解しながら、ともに関係を保持し、新たに作りあげてゆくこと。そうした一連の営みを通じて、自分自身が変わってゆくこと。(C)知識や情報としての「教養」をこえた、教養の極限と言うべき、こうした心の習慣が、「教養」の基礎になる。

⑬ こうした、通常の意味での「教養」を超え、それを支えるものとしての「教養」の重要性は、情報の媒体に、インターネットとコンピュターが占める部分が大きくなっても、変わることはない。西垣通は、情報学の見地から、生物が世界とかかわり、それを意味あるものとして認知するための、膨大な「生命情報」が、もっとも広い意味での情報であると論じている。複雑でつねに動いている周囲の環境に対して、その時その場の自分の関心に基づき、意味のある世界を構成してゆく意識のはたらき。もっとも単純な例を挙げれば、この認知の過程で用いられる、たとえば、敵、異性、食物といった「パターン」が情報の原型なのである。

⑭ 「情報化社会」や「情報技術」などと言われる場合、「情報」としてたいてい想定されているのは、これに対して、一つの内容に固定され、それが決して変わることのない「機械情報」である。それは、つねに変化し続ける「生命情報」の網の目の一部として、その流れを助けるものにすぎない。インターネットが伝える情報も、結局はこの「機械情報」にとどまり、人間にとってもっとも重要なのが、「生命情報」の総体だという条件に変わりはない。こうした「生命情報」の網の目を、一人一人が、自分の周囲に築きあげそれが、またそれを変えてゆくこと。それが「教養」の基礎をなす教養の内実なのである。

⑮ 同じ生物と言っても、もちろん人間の場合には、生きてゆくうえで直面する環境の複雑さの度合いが、格段に高まる。自然環境のような物の世界との交渉にととまらず、つねに何らかの形で、ほかの人間とかかわりをもたなくてはいけない。そうした他者の意図は、自分にとってはまったく未知の領域にある。したがって、その複雑さ耐えながらコミュニケーションをとることで、社会関係を維持し、更新していかなくてはいけない。

⑯ 安冨歩は、クロード·レヴィ=ストロースが『野生の思考』(1962年)で説いた概念を用いて、そのための思考方法を「ブリコラージュ」(器用仕事)と呼んでいる。一方が他方に対して働きかける。一方向の操作のはたらきではなく、それぞれにもちあわせている有限な情報をおたがいにくみあわせ、構成しなおすことで、現状に対応する手だてをあみだす。そうした、他者との水平の関係のなかでこそ、「教養」の基礎は培われるのである。これは相手とおたがいに知恵を出しあい、たがいの言葉に驚きながら、それぞれ自分を変えてゆく過程であり、先に見たような、競争と支配の関係と、まったく対極にある。

⑰ この「教養」の基礎は、とにかく本をたくさん読めば身につくとか、特に家庭や学校で教わればすむというものではない。それは、おそらくろくな教育を受けていない、オーウェルの描く死刑囚の例が示すとおりである。日常生活の全般において、さまざまな事物や他者とかかわるなかで、みずからの心と身体に、じっくりとしみつかせてゆくものだろう。その過程は生涯のあいだ続き、終わることがない。

(出典 苅部直『移りゆく「教養」』.NTT出版、2007年。なお、出題の都合上、原文を一部改変した部分がある。

(1)太字(A)において、筆者のいう「現状」とはどのような状況か。150字以内で説明しなさい。

(2)太字(B)で、筆者が栗原の解説に依拠して、オーウェルの態度が示していると考える「教養」とは何か。150字以内で説明しなさい。

(3)太字(C)に関連して、情報化社会における「教養」を筆者はどのように捉えているかを簡潔にまとめた上で、今日において筆者のいう「教養」はどのような役割を果たすべきか。あなたの考えを400字以内で理由を示して論じなさい。なお、現在では問題文の出典が出版された当時(2007年)よりSNS,AI,ロボット、ビッグデータ活用など技術の発展が一層進み、他者や社会との開係がより複雑化したことを踏まえること。

(2)考え方


(2)
第⑩段落「このように、「限界状況で、教養は、生の証しとか、人間の尊厳としか言いようのないものとして、そっと現れる」。 そうふまえたあとで、「私に教養ということばで、身体が他の身体と交通しながら、自分と世界と知り、またそれを変えていく生の軌跡を思い描く」や第⑫段落「人が、世界をとらえ、しかもその世界が独自の原則にのっとって動いていることを、
深く認めながら、それを理解し、世界とのおりあいをつけていくこと。他者が自分とはまったく異なる志向をもった人間であることを了解しながら、ともに関係を保持し、新たに作りあげてゆくこと。そうした一連の営みを通じて、自分自身が変わってゆくこと。」の抽象化された内容を第⑩ 段落の「死刑囚の側は、すぐに命を絶たれることはわかっているのに、足が汚れるのを無意識にさけ、みずからの「生への愛おしみ」を最後まで保ちつづけた。これを見たオーウェルの側も、自己と他者、植民地支配者と現地住民との間にある壁をのりこえ、目の前にいる死刑囚が自分と同じ人間であることを、感覚のすべてをもって了解し、『帝国主義の悪を一気に知ってしまう』。」に当てはめながらまとめる。

(3)

第⑬段落の「機械情報」と「生命情報」をそれぞれまとめる。

「機械情報」:一つの内容に固定され、それが決して変わることがない。「生命情報」:複雑でつねに変化する周囲の環境に対して、その時その場の自分の関心に基づき、意味のある世界を構成してゆく意識のはたらきである。

「その時その場の自分の関心」を「志向性」と言い換えるとよい。

「人間にとってもっとも重要なのが、『生命情報』の総体だ」が情報化社会における「教養」の指す内容。


第⑭段落の「こうした『生命情報』の網の目を、一人一人が、自分の周囲に築きあげそれが、またそれを変えてゆくこと」がこの参考文でこれまで述べてきた筆者の言う「教養」の定義であり、これを「機械情報」=AIとの関連から考察する。



教養.jpeg

(3)解答例


(1)
70年代以後の大学進学率上昇で教養のある者として大衆から区別するのが不要で不可能になると教養による人格向上や欲望の制御という教養の必要性が説得力を失った。教養をふりかざす者の教養なき者への蔑視や教養の必要性の答を放棄したまま教養のこれを説く大人や先輩へのうさん臭さから大学生の教養ばなれが起こっている。(150字)

(2)
オーウェルの態度が示していると考える「教養」とは限界状況で生の証し、人間の尊厳として現れる。オーウェルにとって他者である死刑囚は生への愛おしみを最後まで保ち続けたのを見た彼は、植民地支配者としての自己と植民地住民としての他者との関係を交流し、帝国主義の悪を理解することを通して自分自身が変わっていった。(150字)

(3)
 インターネットの「機械情報」は一つの内容に固定され、それが決して変わることがない。これに対して「生命情報」とは、複雑でつねに変化する周囲の環境に対して、自らの志向性に基づき、意味のある世界を構成してゆく意識のはたらきである。人間にとってもっとも重要なのが、「生命情報」の総体としての教養である、と筆者は捉える。
 AIは、w e b上の情報をまとめた最大公約数的な「正解」を提示する。この解は固定的であり、アップデートが遅れてしばしば誤ることがある。情報化社会における教養は「いま」「ここで」「私」が求める解を自ら主体的に創り出すものである。V U C Aと呼ばれる不確実性の時代を生きる私にとっての教養は、主体的に世界と関わり、生きる指針を照らす灯台となる。生成AIの解を参考にしつつも、仮想空間に囚われず、リアル空間の中で出会う他者に揉まれながら、AIを乗り越え、その「正解」を書き替える創成的な役割を果たす。(399字)

OK小論文では、横浜市立大学をはじめ、ほかの国公立大学や、私立大学の総合選抜型、一般入試の小論文のオンライン個別授業の受講生を随時募集しています。



オンライン授業をご希望の方は以下のココナラの講座からお問い合わせください。


サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す