💎いわゆる「お布施」という「カラクリ」!
「お布施はお気持ちです!」
法事の折に、いくらお布施を包めばよいかわからずに
僧侶に聞いて、こう返ってきた経験のある人は多いのではないでしょうか!
私もその多い人間の中の一人です。
この言葉からわかることは、「お布施」は「お気持ち?」だということ!
それでは、僧侶の言葉を真に受けても、どうも気持ちが入らないので
法事に僧侶を呼んでもお布施を払わないという
選択肢はあり得るのだろうか?
私は、あり得ると判断した人間です。
しかし、風習&世間体という下らないしがらみに!!!
確かに「お布施はお気持ちです!」という言葉を真に受ければ理屈としては、
法事をしてもらってお布施というものを払わないという選択肢はあるはずです。しかし、そのようなパターンは無いに等しいのが現実でした。
例え、信心深くなかったとしても、
法事の儀式を執り行ってくれる僧侶に対して、
その対価としていくらかの「お布施」を包むことに
違和感を覚える人は少なくないはず!
むしろ焦点になるのは、
・いくら包めべきなのか?
・その金額を包む根拠はどこにあるのか?ということのはずです。
日本ではほとんどの物事に定価が設けられて値札の付いた生活が一般的です。
そのため、突然に「お布施はお気持ちです!」と自主性を求められても
多くの人が戸惑うのが当たりまえのはずです。
どういうわけか戸惑わない人間が多く存在していた感があります。
「お布施」の金額というものに対しての違いというものが、
「戒名(かいみょう)のランク程度」しかないはずです。
というよりも、バックに役所が存在しているはずです。
ここが巧妙なところなのです。ですから本来
どのような意味や価値をもつのか?やはり理解しづらいのが現実という事です。さらに、理解しないでおカネは支払わなければならないようなフィーリング!これはまさに「依存症商売」と言えるはずです。
大昔からですから、「依存症商売の先駆け!」と言えるはずです。
また多くの日本人にとって、
先祖供養を執り行う事は、必ずしも仏教あるいはキリスト教を信じることと
イコールなのではないということです。
私もそう考えています。
要は、特段強い信仰心は持ってはいないが、先祖は尊ぶというのが
日本人の何て言うか最大公約数というものになっているのです。
故人を偲ぶ(しのぶ)という先祖供養に意義を認めているからにすぎないと思うのです。信仰心に執着しているのではなく!
この気持ちがあるから、僧侶から「お布施はお気持ちです!」と言われても
高額のお布施を包もうという気持ちには当然に傾かないという事が
普通の人間としては当たり前のことと思うのです。
それよりもむしろ適正価格が不明な事に困惑するばかりになってしまうのです。自ずとこういうフィーリングになってしまうのです。
意識無意識ということではなくてです。
もう皆さんお解りだと思います。
いわゆる「依存症ビジネス!」なのです。
こういう気持ちに自ずとなるこの気持ちをうまく利用する、
まさしく「宗教依存症ビジネス!」そのものなのです。
さらに大昔から存在しているので「依存症ビジネス!」の根源といえると感じています。
「カモにされやすい日本人!」とはよく言ったものです。
それも同じ日本人にですよ!
これ仏の実子が継子にうまくだまされている行為と言えると思うのです。
やはり、日本という国はどうあがいても依存症社会主体の国、
プラスになる事でのつまり自分への無形財産作りにいい意味での
依存症フィーリングならばいいのですが、
こういう依存症ビジネスの方が目だってしまうので仕方ありません。
「何かおかしい⁈」と感じる物事は、やはり依存症ビジネスと思って間違いないと思っている次第です。
この依存症ビジネスでの困惑(特にお布施というもの)というものをくみ取り
民間業者が僧侶へのお布施をも含めて、
葬式というものを明朗会計で提供するサービス及び
僧侶を呼ばずに親族だけの見送りと火葬だけの提供サービスが開始されています。
これと並行して、コロナ禍「2019(令和元)年~2021(令和3)年」を契機に、葬儀の規模を縮小する傾向が強まり、
これまでの一般葬が2024年には3割程度に!
この一般葬の代わりに
①家族葬というものが拡大!
②一日葬(告別式のみ)
③火葬のみの直葬火葬式というふうに
簡素化、非宗教化の時代に現実になっていると感じています。
そういう式場が目につくようになっていることからも現実と感じています。
「僧侶を呼ばなくても故人を偲び先祖を尊ぶことは叶う!」
という考えが当たり前となってきていると感じています。
やっと普通のフィーリングになっていると感じている次第です。
「お布施はお気持ちです!」という言葉は、
元来サービスへの対価ではないということに受け取られるという
曖昧なフィーリングを起こさせるものとして考え出されたものと感じています。つまるところ「依存症ビジネス」のセールストークに過ぎないはずです。
故に、現代社会におけるお布施とは、
「サービスへの対価」として払っている側面が色濃く、
しまいには僧侶も「役場に納めなくてはならなくて私どもの懐には
そう残らないようになっているのです!」という講釈を今だに言っている始末です。お布施というものの存在意義は根底から崩れ去って然りのはずです。
私思うのですが、お布施の事も然りですが
本来の僧侶の役目というのは、その土地の人達の相談相手となり
手を差し伸べるということのはずです。
ですから、出家という言葉も存在したはずです。
しかし、現実はいつの頃からか一般人と同じになってしまいました。
このことからすでに僧侶の役目は無いに等しくなり、
故にこの「お布施」という事柄に世間は目を向けたと思っている次第です。
時代の価値観の変化を目の当たりに感じている次第です。
文化ではなく「負の遺産」という答えが出たので
こういう変化を取らざる負えなくなっていると思うのです。
そして、ましてや大切なおカネというものも絡んでいるので......!!!
間違えました!おカネそのものの商売!
だってバカにならないですよ!このお布施というおカネは.....!
おカネというものは、必要なものごとだけに使うものであり、
ましてカネのなる木は存在しません。
さらに国の所有物であるので国に返却するものです。
その返却の在り方が「寄付行為」というものがベストとなっているはずです。
というよりそういう気持ちになるのが人間!であるはずです。
(追伸)
法事の際にお布施の額を僧侶に尋ね
「お気持ちです!」と言われて困るというよりも
困惑させられたという人が多いことの方が正解ですよね!
まさに「依存症ビジネス!」
仏教の教えでは「お布施」は、
「サービスへの対価ではなく
善行(よい報いを生むもとになる行為)というものであり
大事なのはお布施をしたいという意思(気持ち)なので
僧侶の側から金額を示すことはない!」
マニュアルセールストークですよね!
まさしく「依存症ビジネス!」
今の僧侶というものは、一般人と変わりなくなっています。
ですから逆にお布施を受けるに値する僧侶は、もう
存在していないはずです。それなのに....!
この考え方が正解と思うのですが....!
あらゆる「依存症ビジネス」よ、さようなら!!!ナンチャッテ!
💜皆さんに幸あれ~💜!!!