💜ぼんやりとした「文系人間」の真の強みを明かし、
単に「理系になれなかった人」が「文系の人」なのではないという事。
文系人間がもつ「文系力」とはいかなるものなのか?
また、それが、私たちの社会をいかに大きく動かしてきたのかを明らかにします。理系偏重の風潮にあって、
どのように「文系脳」を鍛え、「文系力」を社会に生かし、
自分の人生をも豊かにしていくには?という事を解き明かします。
💎2015年文化省は、全国の国立大学に、教員養成系学部や人文社会系学部の
廃止や組織改編を求める通知を出しました。
文系学部の縮小を促すこの動きは、「文系軽視」と受け止められました。
理系の研究者や技術者をより多く育てるべきで、何の役に立つのか
はっきりしない文系学部の定員は、減らしてもいいのではないか、といった
風潮も広がっているのです。
しかし、日本では、こうした「理系重視」「文系軽視」と言われる動きは、
今にはじまったことではありません。
戦後、日本が、技術立国・科学立国として立ち直っていく中で、
技術者が重要であることは、これまでずっと社会の共通認識でした。
もっと遡れば、繊維工業などの軽工業から、
鉄鋼・造船などの重工業への移行が始まった明治時代から
技術者の養成が国力増強に欠かせず、いわゆる理系が重視されてきたのです。
その流れが、第二次大戦後に一層加速して、大量の技術者が必要とされて
理工系学部の定員がどんどん増えてきたのです。
そして、現在、産業革命時の技術の延長戦ではない、
ITを中心とした技術革新の大波が押し寄せてきており、そのため
「技術が国を支えるのだ」という意識が改めて高まってきているといえると思います。
そもそも理系重視の考え方は、ある意味、明治維新以来、形を変えてずっと
この国に続いてきたものなのです。
たとえば、物理学を知っていれば、物理的な現象を利用して、
様々な生産活動が可能になり、経済を発展させて、国力を高めることが
できるわけです。
ですから、明治維新期、西洋からまず導入されたのは、
今でいう理系の知識、進んだ化学技術であり、
この時から、理系重視はすでに始まっていたのです。
さて、江戸時代はどうだったのでしょう!
どのように生きるのかを言葉で伝えて、それを言葉で受け取って理解し
そして、自分の生き方を常にその言葉に照らしてチェックして
道を間違わないように生きていく。
言葉を中心にして、自分を整えていく作業は、間違いなく文系的。
それでは、科学教育は、どうだったかと言うと
読み書きそろばんというくらいで、確かに計算も教育の重要な要素では
ありましたが、それはあくまで実用的な範囲での算術教育にとどまるものでした。理系的な発想を伸ばすような、体系的な教え方をしていたわけではなかったのです。
💎IT全盛の世ですが、決して「理系の時代」ではないのです!
情報技術が猛スピードで進化する現代は、
文系の人間に要求される最低限の技術的知識の水準も高くはなってきています。
昭和時代にあったのは、ホワイトカラーの存在がまさしくこれでした。
やはり理系の技術者優先であったからです、今思うと!
しかし、この時は、ITはなく、このITの代わりに、ブルーカラー
つまり現場労働者への移行でした。
だからと言って、ホワイトカラー(オフイス勤め)が亡くなったわけではなかったのです。
オフイス勤めは、なくならかったのですから!会社?
故にリストラという策が遂行されたのです。
なにがあっても、終身雇用、年功序列は続くという事が
あっさり中止となったのです。マジ!!!これ現実です!
話を元に戻すと、
例えば、文系だからパソコンを全く操作できない、ということでは
もう今は、仕事ができないはずです。
文系の人間が、理系的な知識からまったく無縁で済むという時代では
なくなってきているのです。
昭和時代、私も、どう考えてもパソコンの事は使って把握しないといけないという考えになり、習いに言った次第です。仕事をするうえでです。
理系的、技術的知識が文系の人にもそれなりに求められるように
なってきているのです。
しかしながら、ITを中心とした技術革新の時代が、すなわち
理系の時代であるとは、どうしてもその考えにはならないのです。
たとえば、パーソナルコンピュータとスマートホンを商品化して、
インターネットを万人が使える道具にした、
アップルの故スティーブ・ジョブズ氏は、理系人間だったのでしょうか?
大学を中退してその後は、西洋書道や美学の講義をモグリ受講
していたというジョブズは、あきらかに文系の人間です。
スティーブ・ジョブズは、「これが美しい」「これが必要だ」という
総合的な価値判断、未来に対するビジョンを持っていたのです。
それに従って「こういうものをつくれ」というミッションを技術者に与えました。
相棒のスティーブ・ウォズニアックをはじめとする優れた技術者たちが
対応し、アップルはIT革命の旗手となったのです。
”総合的視野と価値判断”に基づいて、組織を動かすことが、経営者の仕事です。ジェネラリスト的な能力を求められるのが、経営者なのです。
言うまでもなく、人間の生活には、いろんな面があります。
精神面もありますし、コミュニケーションの面もあります。
そして、経済の面があり、教育の面があります。
しかし、専門分野に没頭すると、世の中を総合的に見る余裕がなくなり
それどころか、隣接する学問にすら目を向けることも難しくなってしまいます。
一般に、理系は、専門性の高さが際立っています。
ジェネラリスト的というよりは、スペシャリスト的な志向が理系の学生には
あると感じます。
理系のカリキュラムは、専門性を確保する必要から、
全体を見渡すジェネラリスト的な人が育ちづらい事情があるのです。
ここに理系の弱点があるのです。
同時に、現代社会の中で、文系の人間がいかに強みを発揮していくかということのヒントもあるように思うのです。
また、文系の人自身が、
文系人間とは何者なのか?という点をよく理解していない、
文系とは何か?を理解していないから、
いたずらに自分を卑下したり、文系の強みも生かしきれないという事が
起きてしまうのです。
💎厳密な科学を担う理系と、曖昧な思想を担当する文系。
両者のちょうど境界線にあるのが経済学です。
大学の経済学部は、文系の学部に分類されていますが、
今日の経済学の主流は、
統計的なデータを活用し、数学を高度に駆使したものになっています。
いわゆる近代経済学の勉強は、
数学ができないとなかなか厳しいといわれていて、
高校時代に数学を早々とあきらめた私立文系の学生などは、
経済学部にはいってから愕然としてしまうという事が良くあります。
経済理論を科学的な理論にしたいという経済学者たちの思いが、
これまで経済学において数学的な要素を盛んに導入してきたといえるでしょう。しかし、経済という現象は、はたして科学の研究対象になり得るのかと言えば難しい所です。
物理学については、ある理論を立て、実験をしてその理論が実際の物理現象に
即しているかどうかをチェックすることができます。
ですから、物理学は、完全な科学と言えます。
ところが、経済学の理論というのは、いくら理論を打ち立てても
実際の経済現象を説明することに成功していません。
いつもどこかずれるのです。
経済学者の経済予測は当たらない、というのは有名な話です。
「よくもまあ、この人は、毎年毎年予測を外しながら、
また、来年の予測をかたるものだ」と......!
💜文系の強みとは!
「強みを把握して自覚と誇りで生きていく!!」
それでは、文系の強みとは?
①ズバリ、”ぼんやりしている”ところです!!
私は、典型的な文系の一人です。
ずっと文系として生きてきて、文系の良さを感じています。
つまり、ぼんやりしているところです。
理系に比べると専門性がはっきりしていなくて、
ぼんやりしている分、いろんな分野について興味関心をひろげて
生きやすいのです。人間としての人生を生きていけるのです。
理科系学部の大学生は、カリキュラムがしっかりしていて
日常の授業についていくだけでも大変です。
専門性がはっきりしていますので、自分の専門性については、
非常に深く入り込んでいますが、そのほかの分野に興味を示したり、
学んだりする余裕はないという事です。
②文系人間は、特に専門的に何かを学んだわけではないのですが、
大学時代に遊びも含めて様々なことをやってきたという点です。
そのため視野が広く、特定の得意な事だけに興味があるのではなく
関心領域が社会全般に広がっているのです。
その結果、自然と人によっては違うと思いますが
例えば、”美とかセンスとか感覚”というものが自分が気づかないうちに身について、そういう事が、判断力、未来へのビジョンというものに気づくという事です。この点は、文系人間の強みとして、まず自覚してもらいたいことなのです。
③細かい心理の分析というのは、基本的に文系が得意とするところです。
もちろん科学としての心理学は、理系的な性格も強いですし、
特に行動主義心理学では実験を重視します。
しかし、私たちが日常でやり取りする、相手の心の読解というものは、
”文系的な技術”と言えるものです。
その典型例が、「小説の読解」です。
小説に書かれていることの中心は、人間の心理です。
たとえば、ドフトエフスキーの小説では、登場人物たちが、
それぞれの心理を持ち、感情を持ち、
それを言葉でぶつけ合いながらやり取りしていく様子が描かれています。
つまり、そのような小説が好きという人は、
人間の心理を読み取るのが好きなのです。
ドストエフスキーでも、芥川龍之介でも、太宰治でも、村上春樹でも
およそ小説は、人間の心理を描いているのです。
もちろん、理系にも小説好きな人、文学通の人はいます。
そういう人は、理系でありながら、文系的な感性、センス、思考を持っているという事です。
とはいえ、文学を好む人の比率は、圧倒的に文系の方が高いです!
その根本には、”言葉と人間への関心”があるからです。
つまり、科学的には、捉えづらい領域に対しての深い関心です。
④自由な発言が認められるという事は、
民主主義社会を維持していくためにも非常に重要な事なのです。
「だいたい、こうだよね!」というようなアバウトなことを気楽に言える。
曖昧さをむしろ積極的に活用して、自由に思考していくということ。
これ、文系の知の特質です。
⑤「複雑なものをスッキリさせたい」というのが、理系の感性です。
それでは、文系の感性とは、すっきりと整理するより、むしろ
「ごちゃごちゃさせたい!」という点です。
たとえば、「百年の孤独」という小説があります。
1960年代の世界的なラテンアメリカ文学ブームを巻き起こした
ガルシア=マルケスの代表作で、
20世紀文学を語るうえでは、絶対に外すことができない作品です。
読んで見ればわかりますが、「百年の孤独」はとにかくごちゃごちゃした
小説です。
七世代にわたる長大な物語で、登場人物も当然ながら多いです。
「また、アウレリャノ某っていう名前の人が出てきたぞ。何人目だ?」という感じで、読んでいるうちに誰が何をしたのだかわからなくなってきます。
しかし、そのごちゃごちゃ感がなんともいえない幻想的な面白さを生んでいるのです。
あるいは、村上春樹の小説もなかなか面白い特徴を持っています。
村上氏の文章は、一文一文は明瞭な翻訳文体でわかりやすい。
けれども、物語の流れは、複雑な謎をはらんでごちゃごちゃしています。
その謎、複雑さに惹きつけられるようにして長編を最後まで読まされて
しまいます。
やはり、ごちゃごちゃとしたカオス的な魅力を持っています。
カオス(ギリシャ神話で、天地創造以前の世界の状態の事を指していて
混沌、混乱という意味合い)
コスモス(秩序ある世界、宇宙の意味合い)
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は、19世紀の作品ですが
ものすごい数の研究、評論が出ても今だにその解釈には決着がつきません。
現在でも、研究者たちが新解釈や新発見を提示しています。
文学用語では、このように多義的でたくさんの発見がある作品の事を
「テキスト性が高い」と言います。
やはり、カオス的でごちゃごちゃとしているところに魅力があるわけです。
こうしたごちゃごちゃした作品が文学史上の傑作、名作とされているのは、
やはり文系が、ごちゃごちゃした混乱を好む、カオスが好きということでは
ないでしょうか!
⑥日常の生活であっても、論理的、実証的である姿勢は、大切です。
会議で何か提案をしたとき、
「君の主張はわかるが、それは君の思い込みじゃないの!」と突っ込まれて
「いや、自分の周りではこうなのです」といった根拠しか示せなければ
誰も説得することはできないでしょう。
具体的なデータなどを示して、論理的に説くことが求められています。
このように発言するときに、しっかりとした裏付けがなければ、
非論理的な人間とみなされてしまいますが
こういった場合でも、本来、文系人間は、”言語運用力”を駆使して、
論理的に対処していくことがすんなりできるし、その能力も高いのが
文系人間です。
「私は、文系人間だから論理的ではない」などとは思わず
論理性を大切にすれば、それは文系人間の強みに必ずなるはずです。
⑦文系で技術自体には、精通していなくても、解決しなければいけない課題を
把握して、どのような段取りでその解を導くのかを整理して示せば
実際の技術的な場面については、「あとはよろしく」と専門の技術者に
任せてしまえばいいのです。
文系人間にとって、この”段取り力を磨き上げる”ことで
理系の人とも相乗効果をもった関係を気づくことが可能になるはずです。
⑧現代社会の技術革新のスピードをみれば、
理系の研究者、技術者を多く育成しなくてはいけないのは当然です。
情報分野はもちろん、生物化学や宇宙工学など、
科学技術の得意な人材を多く育成すれば、それだけ難問も多く解決
できるかもしれません。
しかし、実際に世の中を動かしていて、社会に大きなインパクトを
与えているのは、実は技術力そのものではなくて、
人間の判断力なのです。
社会により大きな影響を与えるのは、
科学技術そのものよりも、それをどう使っていくかという
総合的判断なのです。
その”総合的判断力”を持つ人が、いつの世も求められているのです。
⑨では、文系人間の人が、総合的な判断力を養うためには、
何をどうすればいいのでしょう?
まずは、”広くものを知っておくことが大切です。”
たとえば、経済のことがまったくわからないと、
AI技術が市場にどんな影響を与えるのか、
AI技術をどう新製品に生かせるのかが、わからないはずです。
逆に、たとえ経済通だとしても、
AI技術について、新聞の解説記事程度の知識もなければ
それをどのように、ビジネスに生かしていくか判断ができないはずです。
さらに言えば、これまでの市場の流れもわかっていなければ
「今、この新企画に挑戦すれば、必ずうまくいくだろう」
「最近の市場の流れをみると、いまからやってもうまくいかないだろう」
といった判断もできません。
このように総合的な判断力を磨くためには、幅広い知識が必要です。
しかし、だからと言って、むやみに知識を集めればいいというものでも
ありません。
「判断力」を養うために学ぶべきポイントは、
💜「相場観」&「勘」の二つです。💜
「相場」とは、「物事の常識」と言い換えてもいいと思います。
例えば、何かの取引を行う場合、
その品物の一般的な価格や費用の相場
当たり前の商慣習 などを知らなければ、適切な判断を下せない場合が
出てきます。
しかし、様々な分野における「相場」を知っておけば、判断を誤る確率は
減るはずです。
データと数式を駆使する経済学でさえ、現実の経済を予測することに
ほとんど成功していません。
現実は、科学による分析が通用しない現象の方がはるかに多いのです。
その時に役に立つのが「勘」です。
科学を駆使しても答えの見えない難問に直面しながらも、
なんとか的確な判断をして成功にたどり着く人はいるものです。
科学の通用しない場面において、
なんとなく「これはいける」「これはダメだ」と感じることができる
「勘」を持つ人は、「文系人間」と言えると思います。
ちなみに、科学の通用しない場面としての代表が、経済&政治です。
⑩明治維新期に新しいシステムを導入するプロジェクトを成功させた
リーダーたちは、総合的な視野をもっていたのです。
技術については、専門家ではなかったけれども
システムの中で、科学技術がどういう役割を果たすかがわかっていたのです。
こういった視点は、技術屋でひとつのことに入り込みすぎた人よりも
文系の人のほうが持ちやすいのです。
俯瞰(ふかん)(全体を見下ろす)して全体像を把握して、
そのシステムの本質をつかむという視点は、文系人間が大いに磨くべき部分だと思います。
⑪今の日本は、文系力ともいうべき総合的な判断力の積み重ねの果てに
ここにあると言えると思うのです。
「理科系的な技術者を育てれば国が栄える」とは、一概に言えないのは
明らかです。もちろん、理系的な力、理系力が必要不可欠なことは
間違いありません。
ただ、優れた理系の人材の人材さえいればいいとは言えないのです。
確立した専門分野をもたない、モヤッとした文系の人々。
その人たちが、総合的な判断力を発揮して、
大きく時代を動かして、社会を担ってきたのです。
文系の人達の中には、
「文系とは、ただ理系ではない人たちのことである」
「数学や物理に挫折した人が文系である」と認識している人もいますが、
それでは自分の存在価値を、胸張って主張することはできないはずです。
これまでの歴史が教えてくれる文系力の意味とは、
総合的な判断力を持ち、言葉の運用能力をもって周りと協調をして、
全体の意思決定を進めていく推進役が文系なのです。
こういった視点に立ち、文系の人達も自らの存在価値を再認識してほしいと
考えています。
「あなたは、どんな仕事ができますか?」と聞かれて、
「課長ができます」「部長ができます」などと
前の会社の役職のアピールしかできず、失笑を買うという話があります。
この男、アホか! これ現実!
これは、何が自分の存在価値や強みであるかを考えずにきた文系の男が
陥りがちな悲喜劇ではないでしょうか!
物事を進め、変革を起こしていく文系力とは、
特定分野の専門知識とは、別の次元で、普遍的な力を発揮するという事です。
特定の専門分野を極めたわけではない、しかし、
広い視野をもった文系人間の力が必要とされることは、どんな組織にも
あるのです。
⑫「雑談」とは、人間関係を温めるためのコミュニケーションです!
フレンドリー接客時のアプローチ感覚です!
初対面の人と話すとき、「どこにお住まいですか?」という
あたりさわりのない会話から初めて、10分後には、すっかり仲良くなっているような人は、雑談に長(た)けた人と言えます。
パーティーに行けば、どんどん知り合いができて、いつの間にか
名刺をたくさん配っている。
初めて訪問したお客さんの家で、帰るころには、その家の子供や犬にまで
なつかれている。
こういった人との距離を縮め、打ち解け合った関係性を構築する
コミュニケーションが雑談、フレンドリー接客と言えるのでは
ないでしょうか!
雑談をして、人間関係を温めるということは、
組織で仕事をしていくうえで、とても重要です。
普段から、他愛のないことを話している関係だからこそ
深刻な悩み事も打ち明けやすくなりますし
何か問題が起こった際にも、お互いにフォローし合う事ができます。
こまめに話して、相手の事を知っているからこそ、
「この人のミスをカバーしてあげよう」「あいつの失敗なら許そう」という
気持ちが生まれるのです。
雑談が助け合いの感情を育(はぐく)むのです。
反対に、いかに優秀な人材が集まっていても、
自分の仕事だけをしていて、仕事の話だけで雑談などもなく、
互いのコミュニケーションがあまりない組織だと
助け合おうという感情が芽生えず、いざというときに脆い(もろい)ものです。
どんな仕事であろうと、人が組織でする仕事である以上は、
雑談というものは、必要なのです。
何と言うか、いい意味でいらぬ気を使わないようにするためと思うと
お解りになると思います。
理系でも、雑談に秀でた人は、もちろんいます。
しかし、一般的には、理系の人のなかには、なにげない雑談が苦手な人が
多いようです。
例えば、合コンに参加しても、女性に何を話していいのかもわからず
相手側を退屈させてしまうといったことはよくあります。
昭和時代は、オタク人間がこれに相当しています。
なぜ理系の人達は、雑談が苦手かといえばそれが目的なしの会話だからです。
「これこれについて説明しなさい」とか、
「このテーマについて議論しなさい」と言われれば、
理系の人は、文系の人以上にきっちりと話せることが多いものです。
理系の思考というのは、仮設の検証という目的に向かっていくものだからです。
しかし、雑談というものは、これと言って目的のない、たいした内容もない
脈絡もない、決まった手続きもなくなんとなく続いていくというもので
理系にとってはなじみにくいものなのです。
目的も内容もない話を、言語上の工夫で何とかしていくのが雑談で
一般的にそういったことは得意でないのが理系の人達なのです。
雑談=人間関係を温めるコミュニケーション力
これ、文系力の典型です。
⑬大学の学長選挙と言った場でも、
強いのは、文系学部の教授です。
こうした現実を前にすると、理系の人達が、
「結局、世の中を動かしているのは、文系じゃないか」
「軽視されているのは、我々のほうだ」と感じても不思議はありません。
そういう意味では、理系の人をもっと重視して、活躍の場を増やし
文系と理系のアンバランスを正していくべきであるというのも
十分にあり得る考え方なのです。
これまで科学立国をスローガンとしてやってきた日本ですが
取り立てて理系の技術もない、科学的な技法を身に着けてもいない文系と
言われる人達が、実は、組織の中では、管理職として重用され
世の中を動かしてきたのです。
そこには、これまで見てきたような総合的な判断力、視野の広さや
コミュニケーションといった文系力に対する期待や信頼がありました。
しかし、それだけではなく、単に
「文系が全体を動かす」という習慣、あるいは因習によってもそのように
なっているのです。この面は、否定できません。
「女性より男性の方が全体を見渡す目があるから管理職に向いている。
だから、男性の管理職が多いのだ」という論理は、
今どき通用するのでしょうか?
実際には、女性がそもそも管理職になるチャンスを与えられていないだけだ、
というのが常識的な見方のはずです。
⑭真実はどこにあるのかを、観察と実験に基づいて追求するのが、
理系の学問です。
これは、科学の手続きにのっとって、確実にいえることしか言わないという
態度でもあります。
これに対して、モヤモヤとした現実を相手にする文系は、
本当の真実の追求にはこだわらず、
とりあえずありあわせの材料でわかる範囲の現実を読み解いていくのです。
文化人類学者のレヴィ=ストロースは、
未開の民族が持っている「野生の思考」に注目しました。
近代的、科学的な考え方とは違う野生の思考がもっともよく表れているのが
「ブリコラージュ」で、「器用仕事」と訳されます。
その場に合わせて、ありあわせの材料で何かを作り出す、という事です。
哲学や思想の巨人たちが行った概念化の作業から会社の人間関係まで
文系の仕事というのは、究極の心理、厳密な手続きを重視するものではありません。
文系人間は、
「目の前の事態をなんとか解釈して、言葉にする。」
「目の前の問題をなんとかその場にある材料だけで解決していく」という
「ブリコラージュ」的な性格を持っています。
実際に自分がやっている仕事を思い浮かべれば
データと法則に従って決まった手続きによって解決できる問題は、
あまりないのではないでしょうか!
その都度、起きている事態に応じて、「経験と勘と読書」を頼りにして、
ありあわせの材料で対応しなければならないことの方が多いはずです。
そして、現実にその都度何とか対応していくという「ブリコラージュ」は、
変化の激しい現代のような時代に対応していくために最適な方法でもあります。つまり、文系的な柔軟性(臨機応変)が求められている時代なのです。
💜この「ブリコラージュ」は、
私の人生の後半の仕事だった”ビル管理技術者の仕事”に当てはまると考えています。
文系人間の感覚をベースに、理系の技術(その場にある材料を使っての技術)を習得応用しての仕事だったからです。
この仕事ができる資格としては、第二種電工免状(私)でした。
そして、色々なビル(建物)の管理を経験!💜
また、文系の人でも、思想、信条で固まってしまうタイプは、
注意が必要です。
データばかりに偏る経営者や
以前から持っている考え方や過去の成功体験に強烈にこだわる人は、
ここぞというときに、選択を誤ることが多いものです。
文系的な良さは、猛スピードで変化する現実に対して、
今、手元にあるもので、柔軟に対処していくところにあるといっても
過言ではないという事です。
⑮科学技術の進歩によって、
グレーゾーンが白黒のはっきりした世界に変わってしまうことはあり得ますが
同時に、”科学技術”をいかに使うか?という場面で
新しいグレーゾーンが生まれることも考えられるはずです。
その時、複雑で曖昧な現実に対して、
言葉を武器にして立ち向かっていくことが、AI時代の文系の役割と思うのです。!
⑯現在の私たちは、ITの進歩による大きな社会の変化を体験しています。
これは、確かに目覚ましい変化ではあるのですが
幕末から明治にかけての社会変化は、これとは比べものにならないくらい
大きかったはずです。
なにしろ、ちょんまげを結って刀をさして歩いていた人たちが、
工場を作らなくてはいけなかったのですから....。
郵便が電子メールになる程度の変化は、
何もない所に郵便制度ができる変化に比べたら大したことはないはずです。
明治の人々は、現代人以上の激動の時代の中で、見事に判断力を発揮して
柔軟な対応を見せたのです。
教養を身に着けることに加えて、精神の強さを鍛え上げるのが、当時の
文系教育だったのです。
また、その教育があったからこそ、当時の国家的な難局にあって、
対局を見失わず、明治維新という偉業を短期間に完遂(かんすい)することが
できたのだと思います。
このような心の強さは、現代でも、取り立てて専門的な技術を身に着けていない文系の人には、求められているのです。
たとえば文系の学生が、
就職活動で「人に接するのは苦手だから営業には行きたくないです」と言ったら、かなり印象が悪くなるはずです。
文系の人間は、専門的なスキルがない代わりに、
多少の困難にも向かっていくメンタルの強さがあるべきだと考えられているからです。
大学生が、就職活動をするとき、私は、彼らの内定をもらえる順序が
だいたい予想できます。
頭はいいけれどちょっとメンタルが弱い、あるいは、
弱そうな印象を与えるという学生は、なかなか内定が出ませんが、
少々成績が悪くても、メンタルが強い学生、
どんな無茶振りにも対応できそうな明るさをもった学生は、すぐに内定が出ます。
明治維新から、150年近くたちますが、文系の人達に
メンタルの強さ、心を統率する力が求められているということは、
今だに変わりのないことと言えると思います。
⑰今の若者に顕著にみられる傾向が、
コンサートやライブを大事にしていることです。
CDにお金を使いはしないけれども、ライブやコンサート、あるいは、
芝居のチケットを買うのにバイトに励むのです。
音楽であれ、演劇であれ、その他のパフォーマンスであれ、
ライブ空間には独特の盛り上がりがあります。
この熱は、ライブが終われば、消えて行ってしまうもので、
CD音源のように手元に残せるものではありません。
しかし、儚い(はかない)ものだからこそ、そこには生命の燃焼があります。
ライブは、生きている実感を与えてくれる体験です。
そのことに、現代の学生は、敏感に反応しているのでしょう!
インターネットであらゆる音源や映像が安値に手に入るということは
科学技術によって実現しました。
しかし、だからといって、YouTubeを視聴している瞬間に、
すごい燃焼感があるか、充実感があるかというとそうではないはずです。
現代人は、そのことに気づいて、ライブ空間というものに、あらためて
価値を見出すようになってきたのです。
メディアが発達してきた末に、いままたライブの時代が訪れているみたいです。昭和に私もライブに行っていました。
このようなライブへの渇望感(かつぼうかん)は、
現代社会では、ますます高まっていくと私は考えています。
その意味でも、”現場での柔軟な対応力、適応力に長けている文系”が
今後さらに必要とされるようになっていくと考えています。