不登校を受け入れるって簡単じゃない。親も自分の常識と戦っている

不登校を受け入れるって簡単じゃない。親も自分の常識と戦っている

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コラム
「無理に学校へ行かせなくてもいいですよ」

「今はゆっくり休ませてあげてください」

「まずは子どもの気持ちを受け入れて」

不登校になると、こんな言葉を聞くことがあります。

言っていることはわかる。
たぶん、その方がいいんだろうなとも思う。

でも実際に自分の子どもが学校へ行かなくなったとき、

「はい、わかりました。じゃあ休ませます」

なんて、私は簡単には切り替えられませんでした。

息子は小学4年生から中学校卒業まで不登校でした。

最初の頃は毎朝、

「今日は行ける?」
「明日は行けそう?」
「少しだけでも行ってみない?」

そんなことばかり考えていました。

学校へ行かない日が増えるほど、

「このままで大丈夫?」
「勉強はどうなる?」
「高校は?」
「将来、仕事はできる?」

今起きていることより、まだ起きていない未来のことまでどんどん心配になっていきました。

でも、これって子どものことだけを心配していたわけじゃなかったんですよね。

私自身がずっと持っていた、

「子どもは学校へ行くもの」
「勉強して進学するもの」
「同じ年代の子と同じように進んでいくもの」

そんな“当たり前”が、一気に崩れたんだと思います。

だから、子どもを受け入れるということは、

ただ「学校へ行かなくてもいいよ」と言うことではありませんでした。

親自身が、自分の中にある常識と向き合うことでもあったんです。

「休ませる」ことにも葛藤がある

不登校の子どもに対して、

「今は休ませた方がいい」

と言われることがあります。

でも、親にとっては、その「休ませる」ことさえ怖いことがあります。

休ませたら、もっと行けなくなるんじゃないか。

このまま家にいることに慣れてしまうんじゃないか。

親として、何かしなければいけないんじゃないか。

周りから「甘やかしている」と思われないだろうか。

頭では「休むことが必要なのかも」と思っていても、気持ちが追いつかない。

私にもそんな時期がありました。

だから私は、

「休ませられない親は、子どもを理解していない」

とは思いません。

むしろ、

子どものことを一生懸命考えているからこそ、簡単には割り切れない。

そんな親御さんも多いんじゃないかなと思っています。

「受け入れる=何とも思わなくなる」ではない


不登校を受け入れるというと、

学校へ行かなくても平気になること。

将来を心配しなくなること。

子どものすることを全部肯定できること。

そんな状態を想像することがあります。

でも私は、今でもそうではありません。

「普通に学校へ行って、友達とワイワイ過ごす青春も経験してほしかったな」

と思うことがあります。

それは、なくなったわけではありません。

ただ、

それは私が思い描いていた子どもの人生であって、息子には息子の人生がある。

そう考えられるようになりました。

心配がゼロになったわけでもない。

何でも受け入れられるようになったわけでもない。

ただ、

「私が心配している未来」と
「今、目の前で起きていること」

を少しずつ分けて考えられるようになりました。

それだけでも、息子を見る目はかなり変わりました。

親も一緒に変化の途中にいる


子どもが不登校になると、

「子どもが変わってしまった」

ように感じることがあります。

でも実際には、親もかなり大きな変化の中にいます。

これまで信じてきた子育て。

学校に対する考え方。

勉強や進学への考え方。

「普通」だと思っていた人生の進み方。

それを一つずつ、

「本当にそうなのかな?」

と考え直していく。

それは結構しんどい作業です。

だから、

「まだ受け入れられない」

と思う自分を、急いで変えなくてもいいと思っています。

受け入れるか、受け入れないか。

そんな二択でもありません。

迷いながらでも、心配しながらでも、

今日のわが子を昨日より少し違う角度から見てみる。

それだけでも十分なことがあります。

子どもを受け入れるために、親もまた、自分が信じてきた常識と向き合っている途中なのだと思います。

そして私自身、

見方が変わると、味方としての関わり方も変わる。

そんなことを、息子との不登校の時間から教えてもらいました。

不登校について、

「これでいいのかな」
「誰にも言えないけど、正直もう疲れた」

そんな気持ちがあるときは、うまくまとめなくても大丈夫です。

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