自己紹介

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生ピーマンを齧りながら笑顔でピースをする半ズボンの少年。
僕の幼少期を代表する写真だ。今となってはなぜ生ピーマンを齧っていたか分からないが、そんな変な個性を持つという事が何故かステータスだと感じていた。
九州のそれはそれは緑豊かな田舎で生まれ育った。父は実家を建てた大工さん、母はいろいろと転職を繰り返し、現在もなお介護職員として頑張って働いている。
僕の人生初めての記憶は、水が張った田んぼのふちに立って落ちそうになるかならないかのバランスを楽しんでいた思い出だ。その後は案の定、前面から田んぼにつんのめり泥だらけになって泣きながら家に戻った。新しい感覚を取り入れること、新しい知識を得ること、これまでのパラダイムへの変化を噛みしめることが昔から好きだった。
小学生のときは、近所の友人たちと一緒に基地づくりにはまっていた。竹藪の竹を組んで作った小屋は、なんとも心もとない骨組みしか無くて雨の日には雨避けにすらならなかった。子ども3人ぐらい入れそうな洞穴を見つけると、嬉々としてそこで暮らし始めようとしていた。山に転がっていた薪でお湯を沸かし、九州の代表的なインスタントラーメンをぐつぐつと煮込んでいると、もうもうと煙が立ち上がる。山林からたなびく煙をみつけた近所のおばあちゃんにこっぴどく怒られた。子どもが勝手に火遊びをして危険だったからだ。その後、その洞窟の知覚で夢中になって遊んでいると、突き出た竹がグサッと僕の右足を刺してケガを負ってしまった(その傷は今も残っている)。僕は、なるほど確かに危険だ、と大人の危機管理に妙に感心したものであった。
誰かがこう言うからではなく、合理的に納得がいくかを判断したいという欲求は小さいころから大事にしてきたことだと思う。例えば、車一台通っていない道で赤信号を待つ必要があるのか、ということに反発したがる子ども時代だった。とある算数の授業では、僕VSクラスの他の全員での議論をしたことがあり、そうした際にも引かず持論を展開して最終的にはみんなの納得を取り付けるなどもやっていた。ただしなんにでも反発したいわけでは無く、小学生では体育委員会の委員長や中学生の時には生徒会長をやったりと、まじめで従順な生徒でもあったように思う。
中学3年生にもなると、次のステップを検討し始めるころであるが、その当時の選択肢は家から通える距離にある4校のうちのどこに行くかで、学業成績が悪く無ければその次の大学進学を見据えて「普通科」を有する1校しか選択肢がなかった。今考えると、「もっと無数に選択肢あるよ」、とは思うものの、無知とは怖いものでそれ以外の選択肢があるだなんて夢にも思わなかった。
選択肢が多すぎると迷い動けなくなるものの、「次世代にはもう少し視野が広い選択の機会があったらいいのにな」とは、今になって感じるものだ。
なんとなく今でもこの性質は抜けないのだけれど、当時高校生の僕は「むっつりスケベなのにモテたい」みたいな想いが強かった。もう少し柔らかく当時の状況を説明すると、かわいいあの娘に近づきたいけれど、どうやっていいか分からない、みたいな感覚だったのだと思う。もともと少人数の学校から、1学年10クラスに及ぶ高校生活はそれはとてもとても刺激的だった。趣味や個性の振れ幅が、これまで触れてきたものより格段に広がって行った。ファッションや音楽や運動や異性との付き合い方などなど、僕はある意味で高校デビューしたのだと思う。初めて大失恋をして、爆笑して過ごす仲間たちができ、悪友とちょっと悪さをして、平凡だけど僕の人生の経験値がぐんと広がった3年間だった。
この頃の進路選択で、地元以外の場所へ行くという選択肢が突如として現れた。いや、うっすらとは大学に進学するものだとは思っていたが、それが実際にリアリティを帯びてくるのは高校3年生の1学期ぐらいになってからだった。僕の選択肢は、大阪の大学か横浜の大学。前者は、吉本新喜劇が好きだったから、可愛い大阪女子に「なんでやねん。」と突っ込まれたい、という本当にしょうもなかったけれど、当時の僕としては十分な理由だった。後者については、当時の担任の先生が過ごした大学時代のエピソードに惹かれたからだ。米軍基地もあり、異国情緒あふれるまち横浜。なんだか響きもいいし、みんなが東京東京言っている中、横浜を目指すというのがなんとも自分にしっくりきているなと思っていた。
また、学部に関しては数学や物理が得意だったこと、件の父のモノヅクリの様子を見ていてカッコイイと感じていたことから工学系を目指すことにしていた。秋口から冬にかけてぐんぐんと成績を伸ばしていたものの、センター試験で大コケをしてしまった。センター試験での挫折を経て、何とか滑り込めたのは第一志望の横浜の大学だった。合格発表を友人と一緒に聞いていて、そして、さすがの僕も結果発表に泣いた。あんな安堵はなかなかないと思う。
大学に進学したものの、僕は二部と呼ばれる夜間授業が行われる過程に進んでいた。目指した大学はセンター試験でこけたものの、比較的偏差値の低い二部であれば滑り込めたのだ。僕はこのときから、「目的さえ決まっていればそこを目指す方法はいくらでもある」という考えを確立していた。そして目的は抽象的なほど、方法は無数に広がって達成も可能になる。だから、何か目的を決めた人たちも、一度見つめなおしてほしい。「私にとってその目的がもたらす感情、そのときの様子はどんなだろう」と。野球が好きで生業にするときに、それはプロ野球選手だけがゴールではないはずだ。バット職人でも、野球の監督でも、自身がどこを目指すのかのリアリティをもっと広げてもいいのではないだろうか。
そんなこんなで始まった大学生活。まず初めての一人暮らしに戸惑った。恥ずかしながら、洗濯機の回し方や、炊飯器の操作方法なども分らず、ことあるごとに実家に電話をしてヘルプを求めていた。初めて過ごした横浜の夜は、家にテレビもなく聞こえてくるのはときおり走っていく電車や車の走行音。最初の夜は、とても孤独感を感じていた。今ではもう慣れてしまったが、こうした環境の変化に伴う心理の変化や感情の起伏は、割と冷静に楽しめていたりする。そういえば、マクドナルドでのハンバーガーの買い方が分からないまま、マクドナルドでアルバイトを始めたのもこの時だ。日本で3番目の売り上げを誇るという、マクドナルド相鉄西口店。ここでも、王道のハンバーガーを作る人ではなく、ハンバーガーなどの材料の運搬を行う人という職種を選んでいたのも、王道からはみ出したい男感が如実にでている。(こうして思うのが、王道から外れたがるものの大きくは外れない点が妙なところでもある。)
日中はアルバイトをし、夜間は大学の授業を受ける。単位はギリギリセーフな状況で、大学生活をゆるやかに楽しんでいた。ゆるやかに過ごしすぎていた。いざ学部での就職活動を始めるタイミングで、合同説明会などにも行って見るものの、大学時代に培ったものが何もなかったのだ。そんな矢先に出会ったある一冊の本、そこから僕の思考はがらりと変わってしまったように思う。僕ら一人一人の力は小さいけれど、例え小さくても想いが人生を好転させるし、夢や目的は必ずや達成できる。ただし、僕がその夢から逃げなければ、だ。
そうして、大学進学時に思っていたエンジニアとして研鑽を積むべく、学部就職ではなく大学院に進学をして修士を取得した。国際学会ではU36の若手エンジニアとして表彰され、国際論文も何本かしたためた。先生や先輩後輩の尽力あってこそだけれど、頑張った結果を得たと実感できたタイミングであった。
そこからは世界的な企業で研究員として職を得て、僕の新卒での仕事が始まった。会議は英語、世界最先端の実験機器を使いながら、実験手法の開発や音振関係の基礎研究に携わっていた。この頃には、世界の視点で日本というものがどう映っているのかを見てみたいという朧げな思いがあった。結果的に僕が共に過ごした外国の人たちは、とても優秀で温和で僕らに対する謙虚な姿勢を持ってくれていて、日本云々ではなく人間的に素晴らしい人に出会えた。
当時は北関東で働いていたのだけれど、東日本大震災のあおりがあり、会社の休業や輪番停電、手に入らないガソリンなど、貨幣経済に依存するインフラの仕組みに心もとなさを感じ、日本創生会議の発した消滅可能性都市の議論から、1次産業を有する田舎の逞しさや住環境に憧れを抱くようになっていた。30を過ぎたあたりで、一角の人物にならなければという焦りもあったのだと思う。そうした想いが臨界点を迎え、九州へ帰り貢献していきたいという想いが次第に強くなっていった。
また、世界有数の企業という事もあり、ワークライフバランスを向上することでいかに従業員の会社への愛着を高くしていくかという議論もなされていた。当時の僕は幸福論の議論にもハマっていて、最終的にポジティブ心理学の4要素(やってみよう、ありがとう、なんとかなる、あなたらしく)が満たされている様子が、まさしく幸せの状態だと考えるようになっていた。こうした幸せの要素を理解し、九州の地元で増やすことができればもっと次世代が豊かに過ごせるのではないだろうか、と考えるに至っていた。
そう思っても尚、この時の僕にはふんぎりがつかなかった。どう一歩を踏み出してよいかわからなかったのだ。でも、人に会う事は積極的に続けていた。
そんな折に、強烈な個性と自信をのぞかせる経営者との出会いがあった。今では大活躍のとあるベンチャー企業だ、「ウチに来なきゃお前の人生もう終わってるよ。」とう言わんばかりの重圧に、決死の覚悟で飛び込むことにした。
結果的に精神的に大けがを負ってしまって、この会社を3か月で去った。詳しくは避けるが、ストレスの余り砂糖をそのまま食べるというストレス解消に向かい、結果3か月で13キロ体重が増えた。
心がぽっきり折れて帰ってきた実家。のほほんと過ごしていたら熊本の大きな震災に遭遇することとなった。東日本大震災のそれがフラッシュバックしてくる。それでも実家は兼業農家、蔵にお米はあるし、井戸水も飲めるぐらいきれいだ「半年ぐらいは大丈夫だわなー」という両親の言葉に田舎の逞しさを感じずにいられなかった。そして、速攻「熊本に支援物資を送る団体」が立ち上がった、スピードが凄いしそしてプロセスも理にかなっている、凄い。こういう温かみのある活動を即座に、そしてネットワークを駆使して行動ができるこの地域は本当に凄いなぁと思い、地元に居座る決意をした。
その後は魚の加工場で魚の捌き職人を、沖縄や群馬のペンション事業でホテルマンをしつつ、地元の公民連携事業で得意の持論を展開したりしていた。この持論がハマったそうで、のちに第3セクターのまちづくり会社へ事業企画部長として入社することになった。
事業企画部長としては、小売り事業部の移転のPMや新商品開発、地域挙げてのイベント企画運営や創業支援の事業計画作成、グランピング事業の企画づくりなどなどたくさんの経験をさせて頂いた。まちづくりとは何かをよくよく考え、時に悲嘆し、時に感激しながら、自分の力不足で前に進まない状況になかば苛立ちながら悶々と過ごしていました。まちづくり会社に入る前には、「ポジティブ心理学的な幸福な人が増えるだけでもっと町はよくなるはずだ」と息巻いてました。考え方ひとつで、もっとみんなの世界は変わるんじゃないかって。でも、世間にまん延していたのは「諦めという名の満足感」というものだった。みんな社会や環境に対して文句はあるけれど、それらが変わるなんて到底思っていなくて、他人事で過ごすことに慣れてしまっているようで、むしろその状況をそれなりに幸せに過ごしている様子に気づいてしまったのだった。よくまちづくり界隈で声の大きな先輩方がいるが、その子ども達は遠く都会の一流企業で働いていてそれを自慢していたりする。一方で、地域の若者がこの土地を離れていくことを嘆くのだ。何というか、厚かましい話ではないか。
そこで、また別の仮説を考えていく。
この地をもっと盛り上げる人って、時間労働をするようなタイプではなくて己の才覚と行動で世界を切り開く経営者タイプの人なのではないだろうか、と。奇しくも、この街には後継者がいなくて黒字倒産を考えざるを得ない企業が増えてきている。そうした企業と、能力のある若手をマッチングできれば会社が変わり世界が変わって行くのではないだろうか、と。
そう思っていた矢先、たまたまの偶然であるが現職のオーナーに口説いて頂き、事業承継を視野に建設系の商社役員として頑張っている。
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