それが、“記憶”という名の音符
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コラム
セミの声が遠ざかり、
八月の終わりの風が校庭を通り抜けていた。
柚(ゆず)は、
昇降口の前で立ち止まり、
顔にあたる風を感じていた。
(夏休み、終わっちゃうんだな……)
手にしていたスマホを見つめる。
新(あらた)からのメッセージは、
昨日で途切れたまま。
「今日でレッスン終わるよ。
また話したいこと、たくさんある」
そう書かれた言葉を何度も読み返していた。
ある日の音楽室。
窓から差し込む夕日の中、
柚は久しぶりにピアノの前に座った。
鍵盤に触れると、指先が少し震える。
(新の音、覚えてるかな……)
新がいない教室は、
少し広くて、静かだった。
けれど、その静けさの中に、
確かに音の余韻が残っていた。
ポロン、と一音。
そして、もう一音。
曲にならない旋律が、
少しずつ形をとり始める。
「――ただいま。」
不意に聞こえた声に、手が止まった。
振り向くと、
ドアのところに新が立っていた。
「え……いつ戻ったの!?」
「さっき。驚かせようと思って。」
笑いながら近づいてくる姿に、
胸の鼓動が跳ねる。
柚は慌てて立ち上がり、
「おかえりなさい」と言おうとして、
言葉が詰まった。
(言葉にしたら、泣いてしまいそうで……)
新が軽く手を振った。
「その音、柚が弾いたの?」
「うん……でも、まだ全然。」
「すごくいい音だったよ。」
新はピアノの横に座り、
続けた。
「東京でも、いろんな音を聴いたけど、
やっぱりこの教室の音が、一番落ち着く。」
柚は少し息を吸い込んで、勇気を出した。
「……新。」
「ん?」
「行く前に言えなかったけど、
私……ありがとうって言いたくて。」
「ありがとう?」
「うん。
新が“怖くても前に出てみろ”って
言ってくれたから、
私、ひとりでも歌えるようになったの。
声って、
誰かが聴いてくれることで強くなるんだなって。」
新は少し驚いたように目を見開いたあと、
やさしく笑った。
「それ、俺のセリフだよ。
柚がいたから、俺もステージで弾けた。」
二人の間に、風が通り抜けた。
カーテンが揺れて、
音符みたいな光が床を跳ねた。
しばらくして、
二人で同時にピアノの鍵盤に手を置いた。
“ひとつの空の下で”――
あの曲が、再び教室に広がる。
音が重なった瞬間、柚は気づいた。
(あの日よりも、ずっと近くにいる。)
終わりのない音のように、
その時間がずっと続いてほしいと願った。
曲が終わると、新は小さくつぶやいた。
「なぁ、柚。」
「なに?」
「俺たち、これから先もさ――
それぞれの場所で音を出して、
いつかまた重ねよう。」
「……うん。約束。」
二人の笑顔が重なる。
外では、
夏の終わりの風が木々を揺らしていた。
“再会”は、過去を取り戻すためのものではなく、
未来へもう一度歩き出すための合図。
音は消えても、
心に響いた瞬間は残り続ける。
それが、“記憶”という名の音符。
風に乗って、何度でも、
二人を繋いでいく。