春の朝、
校庭の桜がゆっくりと咲き始めていた。
淡い花びらが風に揺れ、光の中を舞っている。
柚(ゆず)は体育館の入口で深呼吸をした。
今日は、卒業式。
胸元のリボンの下に、
こっそり小さな紙片を忍ばせている。
そこには、たった一言。
「ありがとう。
あなたの音が、私の勇気になりました。」
式が始まると、体育館は静まり返った。
ピアノの前には新(あらた)の姿。
彼の背筋は、
あの日と同じようにまっすぐ伸びている。
最初の音が鳴った瞬間、
柚の胸の奥で、何かがふっとほどけた。
(この音――春の風みたい。)
やさしくて、少し切ない音。
何度も聴いたはずなのに、
今日だけは特別に響いた。
曲が終わり、
新はピアノのふたを静かに閉じた。
式が終わった。
柚が近づくと、彼は笑った。
「卒業、おめでとう。」
「新も。……ほんとに、ありがとう。」
「こちらこそ。」
少しの沈黙。
窓の外で風が舞い、
花びらがふたりの間にひらりと落ちた。
「ねぇ、新。」
「ん?」
「東京での学校生活、もうすぐ始まるんだよね。」
「うん。春から本格的に。柚は?」
「私は地元の大学に行くけど……
でも、
これからも音を続けたいなって思ってるんだ。」
「そっか。じゃあ、また“ひとつの空の下で”だね。」
その言葉に、柚は微笑んだ。
昇降口の前。
新がバッグを肩にかけて言った。
「ねぇ、柚。」
「なに?」
「もし、どこかで迷ったら――
そのときは思い出して。
自分の声で世界を変えようとしてた、
自分のことを。」
柚は一瞬、息をのんだ。
そして、ゆっくりうなずいた。
「……うん。絶対、忘れない。」
春風が吹き抜け、髪がふわりと揺れた。
ふたりは笑い合い、
目を合わせたまま小さく手を振った。
数日後。
柚は新しいノートを開き、
最初のページに書いた。
「音は、離れても響き合う。」
窓の外では、桜の花びらが舞っている。
そのひとひらが机の上に落ちた瞬間、
柚の胸に、あのピアノの音が蘇った。
(きっと、また会える。
それぞれの道の先で、
またあの音でつながる日が来る。)
そう思うと、不思議と涙ではなく、
笑顔がこぼれた。
別れは、
終わりではなく
「再び始まるための静かな間奏」。
春の風が優しく吹くように、
人の心にも“次のページをめくる風”が訪れる。
たとえ道が分かれても、
心の中の音は、誰かの心で生き続ける。
それが“春風の約束”