ありがとうの賢者に負かされた悪徳裁判官は、
地の底で悪魔会議にかけられることになった。
人の幸せが大嫌いな悪魔たちにとって、
裁判官の敗北は大問題だった。
彼らは、誰かが幸せになると困るのだ。
満たされることのない世界、
常に「足りない」と責め立てられる世界でなければ、
自分たちの居場所がなくなってしまうからだ。
最大の敵は「感謝」だった。
感謝は、いまこの瞬間を満たしてしまう言葉。
不足を探すのではなく、すでにあるものを見つめさせてしまう。
悪徳裁判官も、この言葉の前にはかなわなかった。
「ありがとう」のひとことに力を失い、膝を折ったのだ。
そのため悪魔会議では、彼を再び働かせるための
「更生プログラム」が議題となった。
「人間の子どもに教え込むのだ」一人の悪魔が言った。
「点数が足りなければ叱り、隣と比べて競わせ、失敗を恐れさせろ。
そうすれば『まだ足りない』という声に耳を傾けるようになる。
感謝など、湧きようがない」
別の悪魔が口をゆがめて笑った。
「大人になっても続ければいい。仕事でも評価で縛り、
『まだまだだ』と責め続ければ、奴らは満たされぬまま走り続ける。
心に穴があいたまま、決して満たされることはない」
その会議のやり取りは、どこか私たちの社会と似ていた。
点数、順位、成果、評価。
子どものころから大人になるまで、ずっと「足りない」と言われ続ける。
それはまるで、悪魔の更生プログラムを忠実に実行しているかのようだった。
しかし、最後にひとりの悪魔が低い声でつぶやいた。
「だが……“ありがとう”だけには、どうしても打ち消せぬ」
どんなに巧妙な仕組みを敷いても、誰かが小さく「ありがとう」と
口にするだけで、心に光が差し込み、計画は音を立てて崩れていく。
悪徳裁判官がどれほど鍛え直されても、感謝の言葉の前には再び力を
失ってしまうのだ。
だからこそ、悪魔たちは怯えている。
人々がもし、日々の中で感謝を思い出してしまったなら、
彼らの築き上げた世界は、一瞬にして揺らいでしまうのだ。
……もし、「まだ足りない」と責める声が響くときがあったなら、
そのときは、静かに「ありがとう」と言葉にしてみてほしい。
どんな小さなことでもいい。
温かい飲み物があること、今日も空が広がっていること。
そのささやかな感謝が、悪魔会議の策を静かに崩していく。
ありがとうの賢者が立ち会わなくても、
その言葉を口にするたびに、あなた自身の中に光が差し込む。
そして悪徳裁判官の声は、遠ざかっていく。
……物語はそこで終わる。
耳を澄ませば、どこかで小さく、
「ありがとう」という声が、今日もまた響いている。