玉堂星と龍高星がまわってくるときは....

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 茶道は本当にすごい。しかし、この茶道の裏に広がる禅に至る精神世界を掴んでいる人というのは、さらにもっともっとものすごく少ない......。
Jemmyは、日本の茶道の中心地に住んでいます。今日はそんな茶道の話。

 さて前に玉堂星と龍高星のお話をした時に、そもそも伝統というのは、だれにつくのか、というのが非常に大事というお話をしたような気がします。それは高いところから低いところへ流れる水の性質ゆえんからです。
 そして、知恵とは、情報をたくさんもってるかどうか、そのものではなくて(知ってることではなく)、益ある情報を引きつけ、その情報を合理的に建設的に判断する力のことを指すからです。
 そしてそれは、面授(直接会って生活を共にしたりなどして、肉体レベルで面会して教わる)でないと、決してつきません。
 その判断力は実は、波動エネルギーの転写によってつくものだからです。
有料記事で、そんなお話を細かくした気がします。
 そして、京都を中心とした西の伝統社会はそれをよくよく知っていました。
 だって、大陸からの知恵は京都に凝縮されていたわけですから。
はい。前回の茶道の有料タイトルもよろしく、インクレディブルな出会いによって、私はカナダ人の85歳の老師と茶道の師弟関係を結ぶことになったんですね。茶道が大陸の算命学と関わりが深い世界だということも理解できました。

 で、老師に会った時が、私にとっては、ちょうど玉堂星と龍高星にご縁のある時でもあったんですね。
 玉堂星と龍高星が回る時というのは、まさに自分に知恵を授けてくれる良い師との出会いがあります。そしてそこでつけてもらった判断力が一生、見えないところで自分を底上げしてくれるようになるわけなんです。
 自分にとってぴったりの師にであえたり、相乗効果が出せそうな、いいマッチングが起こりやすい時でもあるし、普段だったら知り得ないような知恵者からアドバイスを受けるのにふさわしい時とも言えるでしょう。

 でも、それはあなたにとって甘い師匠かどうかはまた別です。そのときのあなたに厳しさが必要ならば、「なんでこんなことを言われなあかんねん!」と言いたくなるような人が師匠に回ってくることもあります。ところが、一見有り難くないように見えたとしても、それは、普段なら面倒だから誰も言ってくれなかったことを、単刀直入にあなたのためにズバリ言ってくれる目上だったりするかもしれません。それはそれで、優れた師匠と言えるでしょう。そうした師匠の一言があの時あったから、私は変われた、とあとで感謝することになったりするので、あなたの知恵が伸びる上で、不必要な判断力の整理を行なってくれていたり、知恵を授けるという意味で、立派に役割を果たしてくれているのです。また、日頃の自分の目上との関係性や、思わぬ本音の炙り出しのような出来事が起きたりすることもあります。

 良い師匠は、まさに天からの知恵の贈り物。
 老師も非常に私を可愛がってくれて、私にとって学びやすい最良の環境をいつも考えてくれているのがわかります。

「Jemmy、君は普通の日本人とは決定的に違っている。そして学ぶ目的がとてもとても純粋だ。仏教の知識も豊富だ。僕もまたインスピレーションを強く受ける。」と言って毎日でも来なさいと言ってくださる。
ありがたいことです。

そんな老師が先日こういうことをおっしゃった。
「茶道はね、師匠の系列が大事なんだ。僕の師匠は、君の師匠でもある。そしてその師匠の師匠も、君の師匠でもある。だから誰の系列で自分がここに関わっているのか、ということは、いつも言えるようにしておかなくちゃいけないよ。」

老師の師匠なんで、その方とは、直接面識ありませんが、今も100歳越えて、お元気でいらっしゃいます。覚えておこうと思いました。
 おそらく茶道だけじゃなくて、それは日本舞踊の流派とかもそうなんだと思いますね。もちろん僧侶も同じですし、伝統工芸の職人もそうなのではないかと思います。伝統と言ったら、海外でもそういう傾向があります。
 本格的なバレエもまさにそういう世界ですから。ワガノワバレエは、最近、ワガノワの正式な講師課程を通って免許をもったものしか、ワガノワ教師を名乗ることを禁止することを世界に通達しました。そう、つまり、伝統、過去から学ぶ、ということは、師匠がだれなのか、ということが自分を決定づけかねないほど、非常に大事になる世界なんです。
 そして、濁りのない正統な流れをたもって下に流してくれるような師匠のもとにつくことが、結果的に学んだことを自分のために生かすとき、とても重要になってくるんですね。

そして、時代背景が変わり、伝統にどうしても修正をいれなくてはならなくなったとき、その系統や歴史、背景理解がしっかりとなければ、どのような経緯でそうなっていったのかを客観的に説明できませんし、変えていい部分と決して変えてはいけない部分の違いがわからない人になってしまうんです。

例えばなんですが、今、着物を洋服風に着るのが流行っていて、モダン着物として奇抜な着方で着物を着る人たちがいます。

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これはこれでいいんですけど、これが伝統かというと違います。
先日、本物の伝統をアカデミックに研究された伝統衣装と髪型の専門家に、同じようなコンセプトでつくった新しいデザイン作品のポートフォリオを見せていただいたんですよね。
すると、両者の作品はおなじようでいて、まったく違ったんです。
そして新しいのに、どこか懐かしい。ホッとする。

 とりたてて、なにが大きく違ったかをしいて語ると、うえの作品のようなモダン着物と言われるようなものは、率直に言って着物ではなく、分類で言えば洋服です。つまり、着物風の洋服。洋服は西洋のものですから、ルーツは海外に属します。
でも、その日本の伝統の超専門家がつくったモダン着物は、洋服エッセンスがとりこまれた「着物」だったんです。つまり、着物のルーツが後ろの時代にたどれる。なぜそうなのか、というデザインの理由がたどっていける。
この両者の違い、わかりますかね。

 一方で、闇雲にアレンジしたモダン着物は、伝統をたどれないんです。
なぜそうなのか、デザインの理由が語れないんです。なんとなく、良いと思ったからこうした。それしか言えない。
 だから、洋服をルーツとする外国人が、モダン着物をコーディネートのチョイスをした方が、むしろ良いものができるんですね。ルーツが洋服だから。
でもその先に、新しく生まれるものはもうありません。洋服に着物が取り込まれた形で終わったからです。
 伝統は、次世代へ生み出していきます。
生み出す力を持ちます。本物の玉堂星・龍高星が宿る場所は、羊水のように次を生み出す力を持っているんです。

 良い悪いは別にして、こうした雑誌のモダン着物は、我々の民族衣装としてのエッセンスが、洋服に応用されたもの、とかんがえてもらえたらわかると思います。おそらくこれらのデザインをした人たちは、深いレベルで、日本の着物や伝統衣装に関する良識や知識は持っておられないと思います。洋服に関しての方がむしろ深いものをお持ちかもしれません。

 しかし、本当に伝統の核を学んでいらっしゃる職人や日本の衣装の専門家がこれをやったら、そうはならない。作り上げたものは、洋服風の着物ができあがる。着物として決していじってはいけない部分、壊してはいけない部分のフレームが、ちゃんと頭に入っているからなんです。

これを見た時に、私は唸ってしまいました。
同じような話で、これは、日本のプロの職人、洋服のパタンナーさんの話なんですが、今はファッションアンテナが高いとされるSNSやYoutuberなどのデザインブランドでのファッションアイテムが売れるそうで、コラボレーションすることがよくあるとのこと。
 ところが、ファッション・インフルエンサーが提案してくるものは、たしかにマーケットのニーズを汲み取ったものかもしれないんだけれども、基礎となる服飾の知識がまるでない。だから、インフルエンサーが提案する服について、打ち合わせする時に、絶句してしまうようなことがよくあるのだそう。
 奇抜とか、素人の面白さとかそういうレベルではなく、それは最低限デザインに必要な知識がないから、最低限のすり合わせすらも困難を極めるという現実があるのだとか。
 おしゃれアンテナの高い人と言われている人が素材とそのファッションの特徴や強み、性質を知り抜いた上での改革的な提案じゃなく、プロからすると、子供が発想するのとさほどかわらないレベルの、現実を無視した感覚となんとなくのイマジネーションの提案でしかないから。

歌舞伎役者さんがいいますよね。型破りって、そもそも型を知らなかったら型破りはできない。って、型を理解せずに、壊したら、それは型破りではない。めちゃくちゃ、っていいますね。w

これなんです!伝統とは。
正当性を引き継いだ師から、受け継ぐべき大事なものを受け継いでいない人は、決して切ってはいけない時に切ってはいけない枝を切って、気が付かない。

そして、玉堂星と龍高星にとって大事なことも、このエピソードと全く同じなんです。ですから、師匠のいない玉堂星・龍高星は、まず伸びないんです。
 特に龍高星なんかは要領がいいので、ビジネスに関わるなら、自然と儲けるラインに関心が行きます。その裏知恵が得なら、とりたててこだわらないタイプもいる。ショートカットして学ぼうとしますし、それである程度は世の中うまく渡れます。 

 しかし、正しい師匠について肝心要の本質を引き継ぐことのなかった龍高星は、そのままの状態でうまくいくことはありません。中年期、かならず行き詰まります。新しいものを生み出すことができなくなるんです。つまり、龍高星の持ち味である、変革ができなくなっていく。

 師匠とは、経験値の高さからいっても、大抵、自分よりも年上であることが多いでしょう?
 つまり、生徒が若いからこそ、多少身を切ってもいいや、と落とし所をみつけ、師匠についてくれようとする人がいる。
でも中年以降、年と共に、自分がうえにたっていくべき年齢なので、いざ基本を学ぼうと師匠をさがしても、普通、簡単に師匠にめぐまれる機会はなくなっていきます。

だから怖いんです。
龍高星は師匠がいらない、独学なんだとか平気で言ってしまうひとは、算命学そもそもの意味自体をわかっていません。かならずあとで泣きを見ます。面倒なことをいやがり、気持ちが移り変わり、継続性がない龍高星も多いですが、その本来もっている忍耐力は、本当は師について、じっくりと本質を学びつづけるためにあります。

 なのに、そこでショートカットしようとしたら、年をとってから後悔してもしきれないことになる。そういう中年の龍高星を結構、見てきました。
そうなりたくなければ、できるだけ優れた師匠を見つけ、師から謙虚に学ぶことです。ですから、ここで学べるときに学ぶことの重要性を改めて強調しておきます。

 私の話に戻しますと、そういう伝統社会ですから、変な師に学ぶ気持ちはなくて、これまで師匠が見つからず、学びたいものがあってもどうしてもご縁がなかったのが、茶道なんですね。
 茶道の型は完璧に覚えて知っていても、自分たちが茶道を通してなにをやっているのかということが全く見えていない先生が多かった印象だからです。
 でも京都の伝統社会に詳しい人に聞いたら、名家系の京都の姉弟は、そういう本質をしっかりまなび、内側を磨いて行ってくれるような茶道の師匠に代々ついて学んでいるらしく、普通のチェーン店みたいな茶道教室には入っていないとのこと。じゃあ、私は無理じゃ〜んと思ってたので、老師にこの年で出会えた私は、本当に幸運としか言いようがないな、と思います。

 しかも、私の茶道の老師の、さらに師はチベットの密教僧侶だったそうで、その僧侶は、サンスクリット語からインド思想を直接学び、チベット中心の遊牧・ユーラシア思想を老師につたえました。
 そこらへんは本当に私と同じ発想で、仏教と大陸を学ばなければ、算命学の本質は全く理解できないのと同じように、日本のすべての伝統は、唐から持ってきたあたりまでしっかりと研究しなければこの世界を掴むことは決してできません。老師は、若い頃、私と同じように考えたらしく、それを実践した分、利休の茶道の核に近づいた理解があり、他の茶道教室とは一線を画す、実践主義の深みのあるレッスンを行なっていました。
茶人なんだけど、まるで禅寺の僧侶なんですよね。カナダ人なのに!w

 そして、私は毎回お題をいただくことになります。禅問答のような形式で、茶道のレッスンがあります。それがものすごく面白い。
ああ、これだよ、これ!本当の茶道はこれ!お行儀良くお茶をたてることが目的じゃない。何度もそう思いました。

「私、真面目すぎて、思考が深すぎるって周りの日本人からよく言われるんで、あんまり周りの日本人と話せないんですよねぇ〜」と師匠にいうと、

「何を言ってる、Jemmyがスタンダードだよ。普通の日本人は、お茶の奥にあるものが見えない。どれだけ厚みと深みのある過去をもっていたか、日本人自身がスパンと切り離され、過去と繋がれなくなってしまった。話にならない。50年前、僕のチベットの師匠はこの日本社会や西洋社会を見て、呆れてこう言った。幼児性の高い社会、エンターティメントに飛びつき、ものを手に入れることだけが人生だと信じて疑わない未熟な精神社会だって。今の日本人は、さらに思考力を失ってしまったな...。」と言っていました。

だから、私は算命学などを教える前に、そもそも外国人よりも前に、日本人に日本の精神世界をしっかりと教える仕事をしていかなくちゃいけないんじゃないか、と最近は思ってきているんですよね。
京都に残っているものが、本当は、なにを表しているのか。
本当に昔の日本人が実践してた、スピリチュアルってなんなのか。
日本人にこそ、面授していかなくちゃいけないような気になっている。

老師は毎日毎日禅を実践している。
物質にこだわりのない生活をしている。
でもそういう老師が惜しみなく私に流してくれた知恵と判断力は、私のところだけで止めてはいけないと思う。

老師が寿命をまっとうされたあと、わたしがこの老師が得た知恵の大海の水を繋いでいく。そんな大義みたいなものもよぎる。
 これまで仲良くしたどの師匠よりも、この師匠からの愛情と尊敬の念を覚えてるんですよねぇ。
私が過去生で、遊牧民コミュニティのなかで精神指導者だった時、私の師匠は老女だったんだそう。また、今世でも、そのような師匠とのご縁ができたことは、決して偶然ではないと思う。

 現時点では、老師の周りに、老師の話が理解できる下地と精神力を持っている目下の弟子は、ほぼいないと思われるので、未来に繋ぐために、徹底的に教わるつもりだし、これを必要とする未来の人たちのために知恵を運ぶために、今度も手術を乗り越えて、伝えるために長生きしなくちゃ。そんなふうに思えてきた。
 師弟関係というのは、師匠の知恵を吸収すること、実践し自分のものにすることが、一番の恩返しであるとも思う。
 でもこれが、東京によくあるスクールビジネスになると、成長する弟子は自分のライバル、生かさず殺さず、ということになるんだよな。

 そしてこの師匠は、子供を本当に愛でるの。
茶道はどこの方向へ置いて、どういうセリフを言って、など色々と決まりがあるが、子供には決して口出しするな、とたびたびいう。
全体とちがうことをすることをまちがいだと思わせ、人として自然な行為を罪悪感で縛るのが日本人の子供に対する悪い躾方のくせだと老師はいうんです。
 茶道にはまちがいというものは存在しない。型の流れから外れてしまったことすらも、すべてはその時に生じた味わいで、アクセントなんだというんですね。それを楽しむ感性を育む方が大事だって。

なぜなら、子供は「無為自然」を教えられなくてもそれを体現する美しい存在。大人よりも高いレベルのものをマスターしている存在だから。

それを大人の勝手な知識で、壊してはいけない。
だから、子供が内側から発する感性のままにしなさい。
そして子供がそれを求めた時には、手を出せばいい。

子供たちが自発的に茶道にかかわることをなすがままにしてる老師をみて、本当にここで良かったなぁと思いました。

実はうちの生日中殺の娘。正直言って、いわゆる日本の子供が当たり前に持っているマナーレベルのマナーはないと思います。
 その証拠に?一度、日本人の京都の茶道教室の入門試験に行ったんだけど、あっさり、落ちたんですね。つまり、やんわりと断られた。
 それはお行儀が悪く、学ぶ態度ができていなかった、から。まぁ、確かに素直に受け身に先生の言うことを聞けるタイプではないんです。
 他の同年代の日本の子供たちは、かならず受かる入門試験で、落ちた。
 これは私にとって、衝撃的なんてもんじゃないくらい、ショックな出来事でありました。日本社会で生きていけるんだろうか?と心配になりました。
 お寺出身のお子さんなどはお行儀が良くてすぐに茶道を始められる状態にあった、だからこの年でもだいじょうぶですよといわれていたものが、実際会って、ちょっとおたくのお子さんはまだ無理ですね。といわざるを得ない状態だったんです。

 そもそもなぜ、茶道教室につれていったかというと、今日庵がすぐご近所にあって、その影響で自分で絵本などをよんだり、和菓子屋さんに行ったりするうちに、娘自身が茶道を学びたい、と言い出したからだったんですけど、いざ段取り整えて連れて行ったら、娘の態度はめちゃくちゃで、着物もはだけるわ、おしゃべりやめないわ、人の話聞かないわ、挨拶もできない、とまぁとんでもなかったのは、事実なんです。(大汗)

 慌てた私があまりの態度に、「あなた、茶道習いたいってYoutubeみてお茶立ててたり、お菓子をもったり、和菓子体験に行ったりしてたじゃない!」というと、「え?そんなことしてないよ!」ととぼけて、嘘までついたあげく、
「和菓子の食べ放題にいきたいなぁ〜」と呟いて、その場は静まり返ってしまった.....。私とぴかちゅうは、怒り心頭で、もう終わった、と思いました。
結局、合格がでたのは、ぴかちゅうただ一人だったのです。

 なので、もうその茶道教室には2度といけないし、おそらく他もむりだろうと思ってたなかで、なんとか下の娘と日本のマナーを結びつけられないかと思案していたなかでの、老師との出会いだったんです。
まさか徒歩30秒のところにそれが存在するとは思いもよりませんでしたけど。

娘は老師の教室でなんどかお茶をたてて帰宅後、「私は、あそこで茶道をやります。」と宣言し、「茶道ってなんてすてきなんだろう!」と布団に入っていいました。「いや、あんた、前にもつれてったやん!」というと、小さな声で「前の先生は、なんか嫌な感じがしたので、習いたくなくて〜」って。

 型重視の先生だったんで、今にして思えば、本当に娘の個性には合わない教室だったとは思う。先生が悪いわけじゃなくて、型があったほうが動きやすい車騎星・牽牛星には合う教室だったとおもうし、45分ワンクールで、効率的に茶道の作法それ自体を覚えるにはよく、体系だっていたかもしれない。

でも、今は精神世界重視の茶道で5時間くらい子供の動きにみっちりつきあってくれる教室。
老師は鳳閣星らしい「無為自然」の世界を守ってくれる茶道の先生だし、娘はここで目をキラキラさせながら、お茶を立てているんですよね。

やっぱり、人智を超えた宇宙と繋がりやすい、神的な生日中殺の不思議さには恐れ入る。

 娘にとって未来を切り開くキーのエネルギーは、玉堂星なんだけど、この老師が娘をおおらかに伸ばしてくれているのははっきりとわかって、ああ、やっと、本格的に起動してくれたな、と思いました。玉堂星が腹にある人というのは、目上の人が目下の位置につくわけなんで、先生が上から目線ではなくて、下手に出てくれる人だと伸びるんですよね。
 老師がまるで娘の生徒になったかのように振る舞ってくれて、そこで主体的になり、得意になった娘をうま〜く導いてくれてるからですね。

一応、下の娘も英語が聞けて、なんなく話せますが、それが幸いにも英語を母国語とする師匠とのご縁に繋がり、娘のためにも、伝統の良い気を引き込めて本当に良かったと思いました。

京都も今日から、梅雨に入りました。苔が美しい季節の始まりです。


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