修験道と陰陽師(系)はたびたび山に入ったんです。

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修験の修行の授業をうけていた時、その道の長い修験者の先達に聞いたことがあります。

 修験者って、法力を使って人に術を施すイメージあるんですけど、そういう秘術ってまだ伝承されてるんですか?って。

回答は、「そういうのは、率直に言ったら、ない。」です。
「ん〜確かに足を怪我して動けなくなったところに、念じて祈祷するような儀礼は伝わってるんだけどさ〜、みんなでえいえい、って念じられたら、さすがに人間じゃん。怪我した人だって、あ、なんか悪いな、頑張らなくっちゃいけないな、っていう気になるでしょ。だから、気力持ち直して、なんか治ったことにして、歩きはじめる。みたいなことなんだな、って僕は経験から解釈してるんだけど。笑」って返答が返ってきました。

そっか〜、もう法術って受け継がれてないんだね〜!w
そして想像の中で、十人の行者中九人が懸命に祈ったとして、怪我した当人としては「治ってません、まったく効いてないです!」と、その九人には言えないってことか、めっちゃ気遣い日本人だなぁ〜と笑えてきました。

 そして、歴史的には、もし行者の山越えでなにか病気や怪我で集団をひっぱるようなことがあった場合、ご迷惑をかけるわけにいかないんで、崖から身を投げて、その人は死ぬことになってんですよね。
つまり、祈祷してそれでも歩けなかったら、崖から身を投げるしかないこと決定じゃないですか。もしくは九人に崖から突き落とされる?!

 昔の修行者はそんな気迫があったのではないかと想像しています。
もちろんね、現代では、山岳救助隊もいるので、何かあった時にそうなることはないでしょうけども、昔はね、ありえたんだね....

ちなみにお遍路さんがもつお杖もそうだし、行者の持つお杖もそうなんだけど、万一死んだ時にそれが行者さんの卒塔婆?墓標になるんだよね。
ここでこのひとが死にました、っていう証拠に、身を投げたところに、その杖をさす。
「だから杖は大事にしなくちゃいけないんだよ!」って、その修験道のお先達さんは言ってましたね。


 お話を聞いていると、修験道とひとくちにいっても日本全国津々浦々、色々あるのが修験道世界だそうです。というのも、修験道はその土地や修行の山で、それぞれが独立していて、歴史的にも知られている集団として紀伊半島にもいくつか修験はあるけれど、そんなに有名な集団でありながらも、歴史的にはそれぞれお互いの交流を全くもってなかったというのです。

 本当に昔は、隠れ里の忍者集団として、山にテリトリーをもって隠密行動をしていたのだな、と思います。自分的には、昭和のお茶の間でやってた、千葉真一の影の軍団のイメージですね。w 滋賀県とか和歌山県なんて、もろに忍者県なんで、ほんとうは掘れば京都よりもいっぱい秘密が出てきそうだけど、聞けば、滋賀県民も実のところ、自分の県の歴史を詳しくおそわらないのだそうです。

 だから、現代になってyoutubeで出てきた修験道さんを、修験道に詳しい他の修験団体の人が、まったくその人知らないよ、ってことも全然あるんですよね。
 それは修験道は、その土地の独自性を持って、進んできた面もあるから、そのひとが不勉強だということなんじゃなくて、修験はそもそもそう言う側面があるので、だれにも知られずに地方で発展してきた修験世界もあっておかしくないっていう意味なんですよね。
だから、修験道はこうです、こうでなくてはいけない、みたいな、完璧に統一された価値観やルールや歴史もないってこと。
 まぁ大学で教わっているものは、それでも伝承世界や歴史世界でわかっていることをきちんとまとめた学術的な修験をテーマにして教授から学んでいるので、それを基準にしたりはしますが、かならずしもそれだけが修験じゃない場合もある、ってことも頭に置いておかねばなりません。

 さて、私が交流している修験道は、修験道世界でももっとも体育会系度が強い、と他所から恐れられている集団。確かめましたら、先生もあっさり「そうですよ〜(それがなにか?とばかりに)」と認めました。ひぇ〜やっぱり!
 なんで、体力軟弱な自分としては、本来もっとも遠いところにあるべき修験世界だと思うんです。普通に生きてて、自らそこに入ろうとは思わない。

でも、なんかねぇ〜ご縁ができたんですよね。w
それをまとめている先生が好きだった。ちゃめっ気のある人だから、また行ってみようとおもってしまい、こんな社会人学生に連絡をわざわざくれたりもするフレンドリーさにも惹かれ、昨日連絡を取ったら、4月末に再び、山行ではない修験修行にさそわれることになり、娘を連れて修験の本山に行くことに決めました。
 それをお話ししたら、友人の漫画家さんも、「私もぜひ連れてって!!」って熱心にいうので、先生の許可を得て、一緒に申し込みをすることになりました。知らないぞ?どんなことになるか。w

 今回、連絡取ったそもそもは
「将来的に在家得度も視野に入れて、なんかに参加しようと思うんですけど、ヒラのヒラで参加したいです」って要望を出したところからの話だったんですけど、教授は、『ぜひ、この機会に〜〜権現様とご縁を結んでください』と(めずらしく?!)僧侶らしいことを言ったんですよね。w

なので、「(信仰はないんですが)先生の人間性が好きなだけなんですけど、それでもいいですか?」っていったら、「自分の人間性に自信があるわけじゃないですが、どうぞw」って言ってくださった。
 その辺の柔軟性が、宗教家の枠を超えて、先生のキャラとして個人的に好のましく思えるんですよね。

でもだからといって、先生はいい加減なわけじゃないですよ。
そのメリハリがなんかいい。
なんか理由なく惹かれてしまう魅力がある。
面白そうな人間を観察するのが、自分の趣味なんですね。

本当は、先生は、在家得度したいなら、もう大学通って生徒やってるんだから、引き受けますよ〜って言ってくださったんですが、わたしも自分の人間性に自信があるわけじゃないので、やっぱり身元引受人を先生にしてもらうからには、ご迷惑をおかけしたくないので、先生がちゃんとお付き合いの中で、このひとなら大丈夫、ってちゃんと確認してもらってからのひきうけの方が、自分的にもホッとするなぁと思ったんですよね。

 ヘタレすぎて、修行で逃げ出す可能性もゼロじゃないし。
だから、下っ端のヒラのヒラからやらせてくださいって言ったんですよ。その修験はファミリー的なところと聞いてはいるんですけど、だって、「思ったより、根性ないですね」とか言われるより、その方が気楽ですからね。この歳になると細く長くで行きたいです。



 修験道は、生きるか死ぬかの男社会の側面もあるんで、本格的にやるならやっぱりめっちゃ厳しいですが、でも修験世界はそれだけが道ではなく、じいさんばあさんであっても、そこそこのところで一般人がやれる道もある。
目標低く、無理せず、こころのリフレッシュで。そんな感じで行こうかと。

あとね〜、現代の修験者って、礼儀正しくて男らしい人が多い感じがするんですよ。(そうじゃないのもいるのかもしれないけど、まだ会ったことない。)
かっこいいんで、個人的に山に行って、そこにしびれてかえってくるだけでもいいなぁとか思う。

そして、ピカチュウが基準になりかねないかわいい我が娘たちには、自分の経験からも、ピカチュウみたいなのはやめとけ、と言いたいんで、清く正しく強くて優しい、そういう男性たちの背中をなんとなく娘にちいさいころから見せておけば、将来、男とはどういうのを男と言うのか、という新しい基準点が、娘の中にできてくれたりして、将来変なやつと結婚しなくて済むかもしれない、など目論んだりね〜。
母親だけど、父の心でそう思うんです。w
でも娘がもう行かないって言ったら、ダメなんで、4月はお試しです。

 そして、やっぱり、平安期の男がたびたび山に入った理由というのも、なんかふと、わかってきましたね。サイキックとか霊能者とか、そう言う系の人たちが山に修行に入るのは、自然の中の生気を得るためでもあったと思います。
山に入ることで、山に流れている気を身に受けるためです。
 すると、自分だけの生気で術をやりくりして枯渇させなくて済む。寿命を縮めなくて済むので、ときどき大自然から気を充電して補う必要があったからだと思います。
 でも外側から受けた気はすぐに自転車の空気が抜けていくように抜けていきますからね〜やっぱり、気力を充実させに定期的に山に入った、それが法師陰陽師的なことをやっていた修験者だったと思います。

私自身もね、何ヶ月か前に、エネルギー系の整体の先生に、「山、また行かないんですか?」って言われたんですよね。
「え?なんでですか?」って聞いたら、
「修行行った後に体みせてもらった時、すごく気が充実してたんですよ。今すごい抜けちゃってるのを感じる。やっぱり、山、いったほうがいいんじゃないですか?」って。

あ、やっぱりそう思う?

比叡山登りたいなぁとか、愛宕山行こうかなぁ、とか思うは思うんだけど、
キャンプも含めて、山に入ったほうがいいなぁ、と自分で思うんだけど、

なんせ、京都、めっちゃ寒いんだよな。
そして、きっかけがないと、山に行くチャンスが掴めない。
交通ルート調べたりとか面倒だし。(方向音痴だから)

なら、いっそ、シノゴの言わずに、彼らそれが目的なんだから、もう修験道集団について、いけばよくない??

って思ったんですね。
周りに流されながら、なんとなく全うしちゃう環境を意識的につくればいいじゃん?

....って、そんなわけで、修験に関わっていく覚悟が生まれた次第なんだよね。

(でも、これもね、有料記事にちょっと書いた、例の術の経過のせいかもしれない。いろんな展開がまだまだ続くと、言われてるんで。自分に理性的に制限をかけていたものを、理由取っ払って突き進んでいる感じがする。)

 まぁでも私、司禄星が守護神なんで、細く長くつづけたことが結局、どんなものであっても自分の強みになり、救いの神になります。
 やろう!とか気負わずにゆるゆると、えんえんと、ずるずると?なんとなく続けちゃうとこが、ある日、突然 役に立つ時が来る。

 司禄星守護神の人っていうのは、同じようなことの繰り返し、積み重ねが自分を救うって言う形で作用しますから、まぁ今からの晩年期にむけて、やってて無駄はなさそう。自分のペースを守れる、と言うことが条件なら、やれるような気がする。(漫画家さんも、守護神の司禄星が主星なんで、お互い細く長くご縁が続いてきたんだな〜。)

体を整える、気を整えるって意味で、今年初めてみようかな、と思った、3月20日、宇宙元旦に向けての、個人的な抱負でございます。

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