お浄土の蓮の花

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布教にうかがったお寺の坊守さまから、このようなお話を聞かせていただきました。
 「私の祖父は『お浄土でまっているぞ』という言葉を母にのこして亡くなったそうです。それ以来、母は『父がまっているお浄土に参らせてもらわないと』と、一生懸命、聞法に励みました。しかしいつも、『お浄土の蓮の花のつぼみが開かん』と口癖のように言っては、さびしそうにしていました。
 そうして私が三十七、八歳の頃でした。母は脳こうそくを患い、闘病生活を送っていたのですが、いつの頃からか、母はあの口癖のような言葉を言わなくなったのです。
 私は気になって、『お母さん、お浄土の蓮の花のつぼみはどうなったの?』と尋ねました。
 すると『もうそんなことは、どうでもいい、どうでもいい』と言うのです。
 病気になって、きっと考えるのも煩わしくなったんだ、と私は思っていました。
 でも、違っていました。母は阿弥陀さまのお慈悲に出遇っていたんですね。私もやっとそのことに気付かせていただきました。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ・・・」
 ありがたいお話でした。このお話を、もう少し味わってみたいと思います。
 まず「お浄土の蓮の花」とは、ご信心のことです。「つぼみが開かない」とは、お母さまがご信心をいただけないと嘆かれていたということでしょう。阿弥陀さまのお救いは「信心一つ」のお救いですから、み教えを真剣に求める人にとって、どんなにつらいことだったでしょうか。
 ところで、親鸞聖人が明らかにされた他力の信心とは、一般的に考えられている「信じる」ということではありません。阿弥陀さまが「必ず救う、間違いないぞ」と喚んでくださっている、南無阿弥陀仏の喚び声を聞く以外にない信心です。聞いてから信じるのでもありません。信じようとする必要がない、聞こえたまま、それが信心です。
 例えば、大学の合格発表です。発表を聞くまでは心配でなりませんが、合格と聞いたとたん、その心配はなくなります。信じる必要もありません。ただそこには合格したという事実があるだけです。その事実が「よかった」という喜びとなり、安心になるのです。
 蓮如上人は、南無阿弥陀仏を「われらが往生の定まりたる証拠なり」
とおっしゃっています。まさに私たちの往生の解決した証拠です。この喚び声に遇わせていただいたなら、そこには「ようこそ、ようこそ」しかありません。これが他力の信心です。
 ところが、その信心がいただけません。喚び声が聞こえないのです。なぜでしょうか。
 それは、こちらから手を出すからです。自分の心に「落ちついた。安心した」という確かなものを作ろうとするからです。これが「自力のはからい」「疑い心」です。その疑いは何百年聞法しても私の力では取れません。向こうからしか開かない扉を、こちらから押しても引いてもダメなのです。
 救い取ってくださるのは阿弥陀さまです。だから今一度、阿弥陀さまのお慈悲を聞いてみてください。いつでも「そのまま救う」の親さまです。疑う私を救わないとはおっしゃっていません。疑う私に、そのまま救うとはたらいてくださる広大なお慈悲に遇って、あんなに取れなかった疑い心が取られてしまいます。
  胸にさかせた信の花
  弥陀にとられて今ははや
  信心らしいものは
  さらになし
  自力というても
  苦にゃならぬ
  他力というても
  わかりゃせぬ
  親が知っていれば
  楽なものよ
 と詠んだ浅原才市さんの歌が何ともありがたく響いてきます。
 お話してくださった坊守さまも、お母さまがはからってもはからっても、はからいきれなかった阿弥陀さまの広大なお慈悲を、ご自身も喜ばれていたのでしょう。その眼には涙がにじんでいました。
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