勝ち続けることに疲れた
カウンセリングルームのソファに座ったタクヤさんは、最初の数分間、ほとんど言葉を発しなかった。窓の外を眺めながら、何度か口を開きかけては閉じる。その様子からは、どこから話し始めればいいのか迷っている様子が伝わってきた。
ダイキ「今日は、どんなお気持ちでいらっしゃいましたか?」
タクヤ「......正直、よく分からないんです。何を話せばいいのかも」
少し間を置いてから、タクヤさんはゆっくりと話し始めた。
タクヤ「僕、ずっと順調だったんです。大学も、希望していたところに入れて。就職も、第一志望の会社に。入社してからも、評価されて、昇進も早くて......周りからは『順調だね』って言われてました」
ダイキ「順調、だったんですね」
タクヤ「......だったんです。」
その言葉の後、タクヤさんは深く息を吐いた。
タクヤ「数ヶ月前、急に......何もかもが、どうでもよくなっちゃったんです。朝、会社に行くのが辛くて。プロジェクトの進捗会議も、昇進の話も、全部......意味が分からなくなって」
ダイキ「意味が分からなくなった」
タクヤ「はい。それまでは、次のプロジェクト、次の目標、って常に先を見て走ってたんです。でも、ある日突然、『これ、何のためにやってるんだっけ?』って思っちゃって......それから、もう、何も手につかなくなりました」
タクヤさんの声は、静かだが確かな疲労感を帯びていた。
「終わり」を受け入れられない
ダイキ「その『何のために』という問いが浮かんだ時、どんな感じでしたか?」
タクヤ「......怖かったです」
タクヤさんは、初めて私の目を見た。
タクヤ「今まで、疑問に思ったことなかったんです。『次の目標に向かって頑張る』っていうのが、当たり前で。それが僕の生き方だった。でも、その当たり前が......崩れちゃった」
ダイキ「当たり前だったものが、崩れた」
タクヤ「はい。それで、結局......休職することにしました。周りには『体調不良』って言いましたけど、本当は......心が折れたんだと思います」
そう言うと、タクヤさんは俯いた。
タクヤ「情けないですよね。エリートコースを歩んできたって言われてた人間が、こんな風になるなんて」
ダイキ「情けない、と感じているんですね」
タクヤ「......そうですね。同期はみんな、順調に昇進してるのに。僕だけ、立ち止まっちゃった」
その言葉には、自分を責める響きがあった。しかし同時に、どこか諦めたような、力の抜けた雰囲気も感じられた。
ダイキ「タクヤさんの中で、『順調に進み続けること』っていうのは、どんな意味を持っていたんでしょう?」
タクヤ「......それが、僕の存在価値だったんだと思います」
少し考えてから、タクヤさんは続けた。
タクヤ「子どもの頃から、勉強ができて、スポーツもそこそこできて。『優秀だね』って言われるのが、当たり前でした。親も喜んでくれたし、先生も褒めてくれた。だから、僕は......ずっと、勝ち続けないといけないって思ってたんです」
ダイキ「勝ち続けないと、いけない」
タクヤ「そうじゃないと、価値がないような気がして。誰かと比べて、上にいないと......存在してる意味がないって」
その告白の後、カウンセリングルームには静けさが流れた。タクヤさんは、自分の言葉を反芻するように、じっと黙っていた。
ニュートラルゾーン:何者でもない空白期間
ダイキ「休職されていた時期は、どんな風に過ごされていましたか?」
タクヤ「......最初の1ヶ月は、ほとんど何もしてませんでした。ただ寝て、起きて、また寝て。食事も適当で......自分が生きてる実感もなかったです」
タクヤさんの表情は、その時期を思い出すように曇った。
タクヤ「2ヶ月目くらいから、少しずつ外に出るようになって。散歩したり、本を読んだり。でも......何をしても、『これ、意味あるのかな』って思っちゃうんです」
ダイキ「意味を、探してたんですね」
タクヤ「はい。でも、見つからなくて。休職前は、プロジェクトの目標とか、昇進とか、明確な『意味』があった。でも、それを手放したら......何も残ってなかった」
その言葉には、深い喪失感が滲んでいた。
ダイキ「タクヤさんの中で、『以前のタクヤ』は、どんな人だったんでしょう?」
タクヤ「......常に前を向いて、目標に向かって走ってる人。誰よりも早く、誰よりも高く。それが......僕だったんです」
ダイキ「その『以前のタクヤ』は、今、どこにいますか?」
タクヤさんは、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
タクヤ「......もう、いないんだと思います」
その言葉は、諦めではなく、ある種の受容のように聞こえた。
タクヤ「休職中、ずっと考えてたんです。『また、あの頃の自分に戻らないと』って。でも......戻れない。戻りたくないのかもしれない」
ダイキ「戻りたくない、かもしれない」
タクヤ「はい。だって、あの頃の自分は......いつも誰かと比べて、いつも焦ってて。それが、すごく......疲れたんです」
タクヤさんの目に、涙が浮かんだ。
タクヤ「でも、じゃあ今の自分は何なのかって言われると......分からない。ただの、何者でもない人間」
ダイキ「何者でもない」
タクヤ「そう。肩書きとか、実績とか、そういうのを全部取っ払ったら......何も残ってない気がするんです」
「英雄の時代」の終焉
ダイキ「タクヤさん、今まで『勝ち続けること』が自分の価値だと思っていたって、おっしゃいましたよね」
タクヤ「はい」
ダイキ「その価値観は、いつ頃から持つようになったんでしょう?」
タクヤさんは、少し考えてから答えた。
タクヤ「......たぶん、小学校の頃からですかね。テストで100点取ったら、親がすごく喜んでくれて。『さすがタクヤだね』って。それが......嬉しかったんです」
ダイキ「喜んでもらえることが、嬉しかった」
タクヤ「はい。だから、もっと頑張ろうって思いました。中学、高校と、ずっと成績は上位で。大学も、みんなが『すごいね』って言うところに入れて......それが、僕のアイデンティティだったんだと思います」
ダイキ「『優秀なタクヤ』っていうのが」
タクヤ「そうです。でも......それって、結局、誰かの目線なんですよね。親の目、先生の目、会社の目。僕が『自分はこうありたい』って思ってたわけじゃなくて、『こうあるべき』って思ってただけで」
その気づきは、タクヤさん自身にとっても、新鮮なものだったようだ。
タクヤ「休職中に、ふと思ったんです。『僕、自分が何をしたいのか、一度も考えたことないな』って」
ダイキ「自分が、何をしたいか」
タクヤ「はい。常に、『次はこれをやるべき』『これができれば評価される』っていう基準で動いてた。自分の......心の声を、聞いたことがなかった」
タクヤさんは、深く息を吐いた。
タクヤ「だから、『何のために』って思った時に......答えが出なかったんだと思います。僕には、『これがしたい』っていう、自分の軸がなかった」
「何者でもない」ことの怖さと、可能性
ダイキ「今、復職されて、どんな感じですか?」
タクヤ「......複雑です。以前と同じ職場に戻ったんですけど、何か......違って見えるんです」
ダイキ「どんな風に、違って見えますか?」
タクヤ「みんな、すごく一生懸命なんですよ。プロジェクトの目標達成に向けて、必死で。それは素晴らしいことだと思うんですけど......僕は、もうあの熱量を持てない」
タクヤさんの声には、戸惑いと同時に、ある種の距離感があった。
タクヤ「同期が昇進したって聞いても、『おめでとう』とは思うけど、羨ましくはない。以前だったら、『負けた』って思ってたはずなのに」
ダイキ「競争から、降りたんですね」
タクヤ「......そうですね。降りた、というか......降ろされた、というか」
少し笑いながら、タクヤさんは続けた。
タクヤ「でも、降りたら降りたで......今度は『じゃあ、どこに向かえばいいの?』って分からなくなっちゃって」
ダイキ「どこに向かえば、いいのか」
タクヤ「はい。地図がないんです。今まではレールの上を走ってたから、考えなくても進めた。でも今は......自分で道を決めないといけない。それが、怖いんです」
その言葉には、率直な不安が滲んでいた。
ダイキ「地図がないことが、怖い」
タクヤ「はい。でも同時に......ちょっとだけ、ワクワクもするんです」
タクヤさんは、少し驚いたような顔で、自分の言葉を確認するように繰り返した。
タクヤ「ワクワク、するんです。今まで、『こうあるべき』に縛られてたから、考えもしなかったことを......考えてもいいのかなって」
小さな問いから始める
ダイキ「タクヤさん、今、『自分の軸がない』っておっしゃいましたよね」
タクヤ「はい」
ダイキ「でも、休職中に『戻りたくない』って感じたのは、タクヤさんの軸じゃないでしょうか」
タクヤさんは、少し考え込んだ。
タクヤ「......確かに、あれは......僕の、本音だったのかもしれないですね」
ダイキ「『誰かと比べるのは、もう疲れた』っていう」
タクヤ「そう。それは......間違いなく、僕が感じてることです」
ダイキ「その感覚を、もう少し丁寧に聞いてみると、何が見えてくると思いますか?」
タクヤさんは、窓の外を眺めながら、ゆっくりと言葉を探した。
タクヤ「......たぶん、僕は......静かに、自分のペースで生きたいんだと思います」
その言葉は、とても穏やかだった。
タクヤ「誰かより早くとか、高くとかじゃなくて。自分が『これ、いいな』って思うことを、大切にしたい」
ダイキ「『これ、いいな』って思うこと」
タクヤ「はい。休職中、散歩しながら、ふと空を見上げた時に......『きれいだな』って思ったんです。そんなこと、何年も感じてなかった」
タクヤさんの表情が、少し柔らかくなった。
タクヤ「それから、本屋でたまたま手に取った本が面白くて。夢中で読んで......読み終わった時、『あ、僕、楽しんでる』って気づいたんです」
ダイキ「楽しんでる、自分に」
タクヤ「はい。『これをしたら評価される』とか、『これは意味がある』とか、そういう基準じゃなくて......ただ、面白いから読む。それだけでいいんだって」
その気づきは、タクヤさんにとって、とても大きなものだったようだ。
タクヤ「たぶん、僕が探してた『意味』って......誰かが決めた基準じゃなくて、自分が感じる『これ、いいな』っていう感覚なのかもしれないですね」
未来への一歩:「英雄」ではなく、「自分」として
ダイキ「これから、どんな風に過ごしていきたいですか?」
タクヤさんは、少し考えてから、ゆっくりと答えた。
タクヤ「......正直、まだはっきりとは分からないです。でも、焦らないでいたい」
ダイキ「焦らないで、いたい」
タクヤ「はい。今まで、常に『次』を追いかけてたから。でも、それで疲れちゃったんだって、やっと分かったので......もう少し、ゆっくり歩いていきたいです」
その言葉には、確かな決意があった。
タクヤ「仕事も、もちろん続けます。でも、『昇進のため』じゃなくて、『自分がやりたいと思えることに関わるため』って考えてみようかなって」
ダイキ「自分が、やりたいと思えること」
タクヤ「はい。まだ何がそれなのか、分からないですけど......探してみてもいいのかなって」
タクヤさんは、少し照れたように笑った。
タクヤ「今まで、『やるべきこと』しか見てなかったから。『やりたいこと』を探すのは......何だか、新鮮です」
ダイキ「新鮮なんですね」
タクヤ「はい。怖さもあるけど......でも、ちょっとワクワクもします」
カウンセリングルームの窓から、柔らかな午後の光が差し込んでいた。タクヤさんは、その光を見つめながら、静かに言った。
タクヤ「たぶん、僕の『英雄の時代』は終わったんだと思います。誰かと競争して、勝ち続ける時代は」
ダイキ「終わった、んですね」
タクヤ「はい。でも......それでいいのかもしれない。これから始まるのは、『自分の時代』なのかなって。誰かの期待に応える人生じゃなくて、自分が『これでいい』って思える人生」
その言葉には、まだ迷いも残っていたが、同時に、新しい何かに向かう静かな決意も感じられた。
タクヤ「次に来る時までに、『自分がやりたいこと』を、一つでも見つけてみます。小さなことでもいいから」
ダイキ「小さなこと、でも」
タクヤ「はい。もう、大きな目標じゃなくていい。『これ、いいな』って思える小さなことを、一つずつ......拾っていきたいです」
カウンセラーの視点──トランジションという旅
タクヤさんのように、「エリート街道」を歩んできた人が突然立ち止まることは、決して珍しいことではありません。むしろ、それは人生の大きな転換期──トランジション──の始まりなのです。
人生には、「終わり」があります。タクヤさんにとって、それは「競争に勝ち続ける自分」の終わりでした。そして、その終わりの後には、必ず「空白の期間」が訪れます。心理学では、これを「ニュートラルゾーン」と呼びます。
ニュートラルゾーンは、何者でもない状態です。以前のアイデンティティを手放したけれど、新しいアイデンティティはまだ見えていない。この期間は、不安で、混沌としていて、時に孤独です。しかし、この空白期間こそが、新しい自分を見つけるために必要な時間なのです。
タクヤさんは今、まさにこのニュートラルゾーンにいます。「何者でもない」ことを怖れながらも、同時に「自分が何を大切にしたいのか」を探し始めています。それは、とても勇気のいることです。
そして、興味深いのは、タクヤさんが「偶然」見つけた小さな喜びです。散歩中に見上げた空、たまたま手に取った本。これらは、計画されたものではありません。でも、それらがタクヤさんに「楽しい」という感覚を思い出させました。
キャリアや人生の大きな転換は、実は、こうした小さな「偶然」から始まることが多いのです。大きな目標を立てるのではなく、目の前に現れた小さな興味に素直に従ってみる。そのプロセスの中で、自分が本当に大切にしたいものが、少しずつ見えてくるのです。
タクヤさんの「英雄の時代」は終わりました。でも、それは終わりであると同時に、新しい始まりでもあります。誰かと競争する人生から、自分自身と向き合う人生へ。それは、きっと、もっと静かで、もっと深い旅になるでしょう。