「別れたいのに、別れられない」
カウンセリングルームのドアが静かに開いた。ユミは少し緊張した面持ちで入ってきて、椅子に腰を下ろした。
ダイキ「今日はお越しいただき、ありがとうございます。まず、今日はどんなことをお話ししたいですか?」
ユミ「......あの、実は、恋人のことで悩んでいて」
彼女の声は小さく、言葉を選ぶように慎重だった。
ダイキ「恋人のこと、ですね。どんなことで悩んでいるんでしょう?」
ユミ「別れたいんです。でも......別れられないんです」
そう言うと、ユミは俯いた。
ダイキ「別れたい、でも別れられない。その間で揺れているんですね」
ユミ「はい......もう3年くらい、こんな感じです。頭では『もうダメだ』って分かってるんですけど、いざとなると......」
彼女の声が震えた。
繰り返される暴言と、それでも離れられない理由
ダイキ「3年というと、長い時間ですね。その間、どんなことがあったんですか?」
ユミ「最初は優しかったんです。すごく。でも、だんだん......機嫌が悪いと、ひどい言葉を浴びせられるようになって」
ユミは両手を膝の上で握りしめた。
ユミ「『お前は何もできない』とか、『お前と一緒にいると疲れる』とか。時には......叩かれることもあります」
ダイキ「......それは、とても辛い経験ですね」
ユミ「でも、その後は必ず謝ってくれるんです。『ごめん、もうしない』って泣きながら。そうすると、私も『この人も辛いんだ』って思っちゃって......」
彼女の目に涙が浮かんだ。
ダイキ「謝られると、『やっぱりこの人には私が必要なんだ』って思えるんですね」
ユミ「そうなんです。それに......なんか、この人がいないと、私、どうなっちゃうんだろうって」
ダイキ「この人がいないと、自分がどうなるか分からない?」
ユミ「はい......考えるだけで、怖くて。胸がギューッとなって、息ができなくなるような感じがするんです」
愛着という名の"見えない鎖"
ダイキ「ユミさん、今感じているその『怖さ』って、どこから来ていると思いますか?」
ユミ「......分からないです。ただ、『あの人がいなくなったら、私は一人ぼっちになる』って、そう思うと......」
彼女は言葉に詰まった。
ダイキ「一人ぼっちになる、という感覚。それはとても強い恐怖ですよね」
ユミ「はい。なんか、死んじゃうんじゃないかって......大げさかもしれないですけど、本当にそう感じるんです」
ダイキ「いえ、大げさじゃないと思いますよ。実は、人間の脳は『大切な人を失うこと』を、かなり深刻な脅威として認識するんです」
ユミ「......え?」
ダイキ「脳の研究では、愛着のある相手を失う痛みは、身体的な痛みを処理する脳の部位と同じ場所が反応することが分かっています。つまり、『心の痛み』と『体の痛み』を、脳は同じように感じているんです」
ユミは目を丸くした。
ユミ「同じ......痛み?」
ダイキ「はい。だから、『あの人がいなくなったら死んでしまう』と感じるのは、ユミさんの脳が本気でそう信じているからかもしれません」
ユミ「......そうなんですか」
少しの沈黙が流れた。ユミは自分の手を見つめている。
「私、おかしいんでしょうか」
ユミ「でも......周りの友達には、『なんで別れないの?』って言われるんです。『そんな人、さっさと別れなよ』って」
ダイキ「友達はそう言うんですね」
ユミ「はい。だから、私がおかしいんだって......なんで普通にできないんだろうって」
彼女の声が小さくなった。
ダイキ「ユミさんは、自分がおかしいと思っているんですか?」
ユミ「......思います。だって、誰が見てもおかしいじゃないですか。傷つけられてるのに、離れられないなんて」
ダイキ「もし、そうじゃなかったら?」
ユミ「......え?」
ダイキ「もし、ユミさんの反応が『おかしい』んじゃなくて、ごく自然な反応だとしたら?」
ユミは戸惑った表情で、ダイキを見た。
脳が作り出す"絆"のメカニズム
ダイキ「人間の脳には、『愛着システム』というものがあります。これは、大切な人との絆を守ろうとする仕組みです」
ユミ「絆を......守る?」
ダイキ「はい。特に、恋愛関係では、ドーパミンやオキシトシンといったホルモンが関わっています。ドーパミンは『報酬』を感じさせるホルモンで、相手といると『気持ちいい』『楽しい』と感じる。オキシトシンは『絆』を深めるホルモンで、相手への愛着を強くします」
ユミ「......」
ダイキ「でも、この仕組みには一つ問題があるんです。それは、この愛着システムは『相手が自分にとって良い人かどうか』を判断しないということです」
ユミ「判断しない......?」
ダイキ「そうです。一度強い愛着が形成されると、たとえその相手が自分を傷つける人であっても、脳は『この人を失ったら大変だ』と反応してしまうんです」
ユミは息を呑んだ。
ユミ「つまり、私の脳が......勝手に?」
ダイキ「勝手に、というか、脳の仕組みとして、そうなってしまうんです。ユミさんが意識的に『別れたい』と思っていても、脳の深い部分では『この人を失うことは死ぬほど怖い』と感じている」
「謝られると、また希望を持っちゃう」
ユミ「......でも、あの人が謝ってくれる時は、本当に優しいんです。昔の彼に戻ったみたいで」
ダイキ「その瞬間は、どんな気持ちになりますか?」
ユミ「安心します。『やっぱり、この人は私のことを大切にしてくれてる』って。それに......『もしかしたら、変わってくれるかも』って」
ダイキ「希望を感じるんですね」
ユミ「はい。でも......その希望が、また裏切られるんです。数日したら、また同じことが繰り返されて」
彼女の目に、また涙が浮かんだ。
ダイキ「その繰り返しの中で、ユミさんはどう感じていますか?」
ユミ「疲れました......もう、何が本当なのか分からなくて。あの人の『ごめん』は本当なのか、それとも......」
ダイキ「本当かどうか、分からなくなってきているんですね」
ユミ「はい......でも、別れようとすると、あの人はすごく泣くんです。『お前がいないと生きていけない』って。そう言われると......」
ダイキ「離れられなくなる」
ユミ「はい......」
沈黙が流れた。ユミは俯いたまま、じっとしていた。
過去に刻まれた"愛着のパターン"
ダイキ「ユミさん、少し個人的なことを聞いてもいいですか?」
ユミ「......はい」
ダイキ「ユミさんが育った環境では、どんな関係性がありましたか? 例えば、親御さんとの関係とか」
ユミは少し驚いた表情を見せた。
ユミ「......私の親は、すごく厳しかったです。特に母が」
ダイキ「厳しかった、というと?」
ユミ「何をしても『それじゃダメ』って。褒められた記憶が、ほとんどないんです」
ダイキ「......そうだったんですね」
ユミ「でも、たまに優しくしてくれる時があって。その時は、すごく嬉しかったです。『やっと認めてもらえた』って」
ダイキ「その『たまの優しさ』が、すごく大きく感じられたんですね」
ユミ「はい......だから、頑張れば、いつか完全に認めてもらえるって信じてました」
ダイキは静かに頷いた。
ダイキ「ユミさん、もしかしたら、今の恋人との関係に、その時のパターンが重なっているかもしれませんね」
ユミ「......え?」
ダイキ「『厳しくされる』けれど、『たまに優しくしてもらえる』。その繰り返しの中で、『もっと頑張れば、完全に愛してもらえる』と信じてしまう」
ユミは目を見開いた。
ユミ「......そうかもしれない」
気づきの瞬間
しばらく、ユミは何も言わなかった。彼女の目には涙が溢れていた。
ユミ「私......ずっと、『私が悪いから』って思ってました」
ダイキ「ユミさんが悪い?」
ユミ「はい。私がもっとちゃんとしてれば、あの人は怒らないって。私がもっと気を遣えば、優しくしてもらえるって」
彼女の声は震えていた。
ユミ「でも......違うんですよね? これって、私が悪いわけじゃ......」
言葉が途切れた。ユミは顔を覆った。
ダイキはじっと待った。しばらくして、ユミは顔を上げた。
ユミ「私、ずっと......自分を責めてました」
ダイキ「そうだったんですね」
ユミ「あの人が怒るのも、私を叩くのも、全部『私が至らないから』だって。だから、もっと頑張らなきゃって」
ダイキ「でも、今はどう感じますか?」
ユミは深く息を吸った。
ユミ「......違うのかもしれない、って。これって、私のせいじゃないのかもしれないって」
その瞬間、何かが彼女の中で動いたように見えた。
ユミ「でも......それを認めたら、私、どうしたらいいんですか? あの人がいないと、私、本当に一人になっちゃう」
ダイキ「一人になることが、怖いんですね」
ユミ「怖いです......すごく」
「一人になる」ことへの恐怖
ダイキ「ユミさん、もし仮に、あの人がいなくなったとしたら、何が一番怖いですか?」
ユミ「......誰も、私のことを見てくれなくなる」
ダイキ「誰も見てくれなくなる」
ユミ「はい。あの人は、ひどいことも言うけど......でも、私のことを見ててくれるんです。怒るのも、私に関心があるからだって」
ダイキ「関心を向けてもらえること自体が、大切だったんですね」
ユミ「はい......だから、それがなくなったら、私、本当に消えちゃうんじゃないかって」
ダイキ「消えてしまう、という感覚」
ユミは静かに頷いた。
ダイキ「ユミさん、今、すごく大切なことに気づいたと思います」
ユミ「......え?」
ダイキ「ユミさんが怖がっているのは、『あの人がいなくなること』じゃなくて、『自分が存在しなくなること』なんですね」
ユミは息を呑んだ。
ユミ「......そうかもしれない」
ダイキ「でも、ユミさんは、あの人がいなくても、ここに存在していますよね」
ユミ「......はい」
ダイキ「ユミさん自身が、ユミさんを見ることができたら、どうでしょう?」
ユミは黙って、自分の手を見つめた。
「別れる」のではなく、「自分を取り戻す」
ダイキ「無理に今すぐ別れろ、とは言いません。でも、ユミさんが今感じている『別れたい』という気持ちは、とても大切なサインだと思います」
ユミ「......サイン?」
ダイキ「はい。ユミさんの心が、『このままじゃいけない』と教えてくれているサインです」
ユミ「でも、どうしたらいいんでしょう......別れたいのに、別れられないって、どうしたら」
ダイキ「まずは、『別れる・別れない』を決めることより、『自分を大切にする』ことから始めてみるのはどうでしょう?」
ユミ「自分を......大切にする?」
ダイキ「はい。例えば、あの人に何か言われた時、『それは本当に正しいのか?』と自分に問いかけてみる。『私は本当にダメな人間なのか?』って」
ユミ「......」
ダイキ「それから、もし可能なら、少しずつ距離を取る時間を作ってみる。一人で過ごす時間を増やして、『一人でいても大丈夫』という感覚を育ててみる」
ユミ「一人でいても......大丈夫?」
ダイキ「はい。今は『一人=恐怖』になっているかもしれませんが、実は『一人=安心』にもなり得るんです」
ユミは静かに頷いた。
一歩ずつ、前へ
ダイキ「ユミさん、今日話してみて、どうでしたか?」
ユミ「......少し、楽になったような気がします」
ダイキ「それは良かったです」
ユミ「まだ、どうするかは決められないですけど......でも、『私が悪いわけじゃない』って、少しだけ思えるようになりました」
ダイキ「それは大きな一歩ですね」
ユミ「はい......ありがとうございます」
彼女は小さく笑った。
ダイキ「これから、ゆっくり考えていきましょう。焦らなくていいですから」
ユミ「はい......もう一度、来てもいいですか?」
ダイキ「もちろんです。いつでもどうぞ」
ユミは立ち上がり、深く頷いた。
彼女の背中は、来た時よりも少しだけ軽く見えた。
【カウンセラーの視点】
このケースで重要だったのは、「別れられない自分を責めている」という点でした。
多くの場合、DVやモラハラを受けている人は、「なぜ自分は逃げられないのか」と自分を責めます。しかし、実際には、脳の愛着システムが強く働いており、相手を失うことを「死の脅威」として認識してしまっているのです。
研究では、愛着のある相手を失う時の脳の活動は、身体的な痛みを感じる時と同じ部位が活性化することが分かっています。つまり、「別れたいのに別れられない」のは、意志の弱さではなく、脳が本気で「この人を失ったら生き延びられない」と信じているからなのです。
また、幼少期の愛着パターンが、大人になってからの恋愛関係に影響を与えることも少なくありません。「条件付きの愛情」を受けて育った人は、「もっと頑張れば愛してもらえる」というパターンを無意識に繰り返してしまうことがあります。
大切なのは、まず「自分を責めない」こと。そして、少しずつ「一人でも大丈夫」という感覚を育てていくことです。脳は学習します。時間をかけて、「この人がいなくても、自分は存在できる」という新しいパターンを脳に教えていくことで、徐々に愛着の鎖は緩んでいきます。
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🙋 このブログを書いている人について
だいき|産業カウンセラー・キャリアコンサルタント
会社員時代、職場の人間関係でメンタルが限界に。「このままではまずい」と一念発起し、コミュニケーションを学び直した経験が、産業カウンセラー・キャリアコンサルタントの資格取得につながりました。
恋愛・婚活でも7年間で88人とデートを重ねながら、うまくいかない時期が長く続きました。その苦しさを知っているからこそ、脳科学・進化心理学・愛着理論といった知識を「自分ごと」として学び続けてきました。
キャリアブレイクコミュニティでは160回以上のワークショップを主催。さまざまな悩みや状況を持つ方と向き合い続けてきた経験が、相談の土台になっています。
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