ブレない自分を求めて
カウンセリングルームに入ってきた美咲さんは、椅子に座るとバッグからノートとペンを取り出し、まるで会議に臨むような姿勢で私の方を見た。
「今日はよろしくお願いします」
美咲さんの声は落ち着いていたが、握りしめたペンに少し力が入っているのが見えた。
ダイキ「よろしくお願いします。今日はどんなことをお話ししたいですか?」
美咲「......実は、転職活動を始めてから数ヶ月経つんですが、なかなか決められなくて」
ダイキ「決められない、というのは?」
美咲「応募した企業から内定をいくつかいただいたんです。でも、どれも『これだ』って思えなくて。それで、結局全部お断りしてしまって......」
美咲さんは、ノートを開いた。そこには、「年収」「勤務地」「仕事内容」「キャリアパス」といった項目が細かく整理されていた。
美咲「ちゃんと比較して、考えて、自分に合うものを選ぼうとしてるんです。でも......選べないんです」
ダイキ「たくさん考えているんですね」
美咲「はい。自分軸を持って生きたいって、ずっと思ってきたので」
自分軸という呪縛
ダイキ「自分軸を持って生きたい、というのは、美咲さんにとってどういう意味ですか?」
美咲「......ブレない、ということだと思います。周りに流されず、自分の価値観に従って生きること」
ダイキ「ブレない......それは、美咲さんにとって大切なことなんですね」
美咲「はい。私、子どもの頃から......」
そこで美咲さんは少し言葉を詰まらせた。
美咲「親からよく『あなたは何がしたいの?』って聞かれて育ったんです。で、答えるでしょう? そうすると『でも前はこう言ってたじゃない』って指摘されるんです」
ダイキ「......」
美咲「だから、ちゃんと一貫性を持たなきゃいけないんだって、ずっと思ってきました。コロコロ変わる人は信用されない、って」
美咲さんの声は少し震えていた。
ダイキ「一貫性を持つことが、美咲さんにとってとても大切になっていったんですね」
美咲「そうなんです。だから今も、『本当にこれが自分の軸なのか?』って考え続けてしまって......少しでも迷いがあると、『これは自分軸じゃないのかもしれない』って思えてきて」
ブレることへの恐怖
ダイキ「美咲さん、今、転職活動をしていて、どんな気持ちですか?」
美咲「......正直、すごく疲れています」
美咲さんは、初めてペンを置いた。
美咲「毎日、『自分は本当は何がしたいんだろう』って考えて。ノートに書き出して、整理して。でも、次の日になると、また違うことを考えてる自分がいて......」
ダイキ「次の日には、違うことを考えている......」
美咲「そうなんです。それで、『やっぱり自分には軸がないんだ』って落ち込んで」
少しの沈黙が流れた。
ダイキ「美咲さん、ひとつ聞いてもいいですか。『自分軸』って、一度決めたら、もう変わらないものだと思っていますか?」
美咲「......え?」
美咲さんは、顔を上げて私を見た。
ダイキ「自分軸って、固定されたものでしょうか。それとも......」
美咲「......わかりません。変わったら、それって軸じゃないような気がして」
パイロットの話
ダイキ「美咲さん、飛行機に乗ったことはありますか?」
美咲「はい、ありますけど......なんで急に?」
ダイキ「飛行機って、目的地に向かって飛んでいきますよね。でも、飛行機は最初に設定したコースをまっすぐ飛び続けるわけじゃないんです。パイロットは、気流や天候の変化に合わせて、常に微調整をしているんですよ」
美咲「......微調整?」
ダイキ「そうです。風が強ければ少し角度を変え、気圧が変われば高度を調整する。目的地は変わらないけれど、そこに向かう道筋は、刻一刻と変わっていく」
美咲さんは、少し考え込むような表情になった。
美咲「でも、それは......ブレてるってことじゃないんですか?」
ダイキ「美咲さんにとって、『ブレる』というのはどういうことですか?」
美咲「......目的地が変わることかな、と思っていました。でも......パイロットは目的地は変えていない。ただ、そこに向かう道を変えているだけ......」
ダイキ「そうです。目的地に向かうために、むしろ調整が必要なんです」
気づきの瞬間
美咲さんは、しばらく黙っていた。そして、ノートをパラパラとめくり始めた。
美咲「......私、ずっと『一度決めたら変えちゃいけない』って思ってました」
ダイキ「うん」
美咲「でも、それだと......目的地にたどり着けないかもしれない」
美咲さんの声が、少し震えた。
美咲「私、怖かったんです。迷うこと自体が」
ダイキ「怖かった......」
美咲「はい。迷ったら、『ああ、やっぱり私には軸がないんだ』って思われるんじゃないかって。だから、迷わないように、ブレないように、ずっと考え続けてきました」
美咲さんは、涙をこらえるように唇を噛んだ。
美咲「でも......考えれば考えるほど、わからなくなって。何も選べなくなって......」
ダイキ「......」
美咲「もしかして、私がやってたのって......飛行機がコースを微調整することすら許さないで、最初に決めた角度のまま飛び続けろって言ってるようなものなんでしょうか」
美咲さんは、顔を上げて私を見た。目には涙が浮かんでいた。
ダイキ「美咲さん、今、どんなことを感じていますか?」
美咲「......少し、楽になった気がします」
そう言って、美咲さんは小さく笑った。
目的地と今の状況
美咲「でも、じゃあどうすればいいんでしょう。迷ったときに、それが『いい迷い』なのか『悪い迷い』なのか......」
ダイキ「美咲さん、パイロットは何を見ながら調整していると思いますか?」
美咲「......天候とか、気流とか?」
ダイキ「そうですね。つまり、『今、どういう状況にいるか』を見ているんです。そして、『目的地はどこか』も同時に見ている」
美咲「目的地と、今の状況......」
ダイキ「美咲さんの『目的地』は何ですか?」
美咲「......幸せに働くこと、だと思います」
ダイキ「幸せに働くこと。それは変わっていませんか?」
美咲「......変わってないです」
ダイキ「では、今の状況はどうですか?」
美咲「疲れています。でも......少し、希望も感じています。いくつか話を聞いた会社で、『ここなら楽しく働けるかも』って思えたところもあったので」
ダイキ「なるほど」
美咲「でも、その会社の条件を見たら、前に『これは譲れない』って思ってた条件と違っていて......それで、『これは妥協なのかな』って思って断ったんです」
条件が変わるとき
ダイキ「その『譲れない条件』は、いつ決めたんですか?」
美咲「......退職する前です」
ダイキ「退職する前と、今と、美咲さんの状況は変わりましたか?」
美咲「......変わりました」
美咲さんは、ノートをじっと見つめた。
美咲「退職する前は、とにかく給料とキャリアアップを重視していました。でも、実際に退職してみて......自分が本当に大切にしたいことが、少しずつ見えてきた気がします」
ダイキ「たとえば?」
美咲「人との関係性、とか。職場の雰囲気、とか。前はそういうのを『甘え』だと思ってたんです。でも......それって大事なことなんじゃないかって、最近思うようになって」
ダイキ「美咲さんの『大切なこと』が、少しずつ変わってきたんですね」
美咲「はい。でも、それって......私がブレてるってことじゃないんでしょうか」
ダイキ「美咲さん、パイロットの話を思い出してください。目的地は変わっていませんか?」
美咲「......変わってないです。幸せに働くこと」
ダイキ「でも、幸せに働くために必要なことが、少しずつ見えてきた」
美咲「......そうか。それは、微調整......なんですね」
完璧を手放す
ダイキ「美咲さん、パイロットは飛ぶ前に、すべての気流の変化を予測できると思いますか?」
美咲「......できないです」
ダイキ「そうですよね。でも、飛行機は飛びます。なぜでしょう?」
美咲「......手元で制御できるから」
美咲さんは、小さく息を吐いた。
美咲「私、すべてを予測してから動こうとしてたのかもしれません。完璧な答えを探してたら、永遠に見つからない」
美咲さんは、涙をぬぐった。
美咲「私、ずっと完璧な答えを探してたんです。『これなら絶対に後悔しない』っていう選択肢を」
ダイキ「絶対に後悔しない選択肢......」
美咲「はい。でも、そんなものないんですよね。じゃあ、私にできることは......選んで、進んで、必要なら調整する。それを繰り返すことなんですね」
美咲さんは、初めて大きく笑った。
ダイキ「美咲さん、今、どんな気持ちですか?」
美咲「......肩の荷が下りた感じがします」
一歩踏み出す
その後、美咲さんは少しリラックスした様子で話し始めた。
美咲「先週、ある会社の方とお話ししたんです。その時、すごく楽しくて。『ここで働けたら楽しいだろうな』って思ったんです」
ダイキ「うん」
美咲「その会社に、もう一度連絡してみようと思います」
美咲さんの表情は、カウンセリングルームに入ってきたときと全く違っていた。
美咲「でも、やっぱり不安はあります。本当にこれでいいのかな、って」
ダイキ「......」
美咲「でも、『これでいいのかな』って思いながらも、進んでみる。で、違うと思ったら、また調整する。それでいいんですよね?」
ダイキ「美咲さん自身は、どう思いますか?」
美咲「......それでいいと思います」
美咲さんは、深く息を吐いた。
美咲「パイロットだって、飛びながら調整してるんですもんね。私も、進みながら調整していきます」
ダイキ「進みながら、調整していく」
美咲「はい。もう、『完璧な答えを見つけてから動く』のはやめます。動きながら、見つけていきます」
美咲「ダイキさん、ひとつ聞いてもいいですか」
ダイキ「どうぞ」
美咲「自分軸って、『ブレないこと』じゃなくて、『目的地を持っていること』なんでしょうか」
ダイキ「美咲さんは、どう思いますか?」
美咲「......私は、そう思います」
美咲さんは、ノートに何かを書き始めた。
美咲「私の目的地は、『幸せに働くこと』。その目的地に向かって、今の状況を見ながら、調整していく。それが、私の自分軸なんだと思います」
カウンセリングを終えて
セッションの最後、美咲さんはこう言った。
美咲「ありがとうございました。今日、来てよかったです」
ダイキ「どんなことが印象に残っていますか?」
美咲「パイロットの話です。飛行機は、まっすぐ飛ぶわけじゃない。常に微調整しながら、目的地に向かっている」
美咲さんは、バッグにノートをしまいながら続けた。
美咲「私、『ブレないこと』が正しいと思い込んでいました。でも、本当は『調整すること』が大事だったんですね」
ダイキ「美咲さんの中で気づきがあったようですね」
美咲「これから、いろいろ迷うと思います。でも、もう怖くないです。迷いながら進む。それでいいんだって、今日わかりました」
美咲さんは、立ち上がって深く頭を下げた。
美咲「また、迷ったら相談に来ます」
ダイキ「いつでもどうぞ」
美咲さんがカウンセリングルームを出ていく後ろ姿は、どこか軽やかだった。
カウンセラーの視点
美咲さんのような方は、実は多い。「自分軸を持たなければ」というメッセージは、現代社会の至るところで語られている。しかし、それが「一度決めたら変えてはいけない」「ブレてはいけない」という固定観念につながってしまうことがある。
大切なのは、「目的地」と「今の状況」の両方を見ること。そして、必要に応じて調整していくこと。パイロットが飛行機を飛ばすように、私たちも人生という旅路を、微調整しながら進んでいく。
ブレることは、悪いことではない。むしろ、状況に応じて調整できることこそが、目的地にたどり着くための力なのだ。
美咲さんが「迷いながら進む」ことを受け入れられたとき、彼女の表情は明らかに変わった。それは、完璧を手放し、現実を受け入れた瞬間だった。
カウンセリングとは、答えを与える場所ではない。クライエント自身が、自分の中にある答えに気づく場所だ。美咲さんは、自分の力で、その答えにたどり着いた。